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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

遺伝子の残酷な真実について

昨日も紹介したこの本ですが

 

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この本は遺伝子の不都合な真実についてバシバシと指摘をしてくれています。

 

その一つが機会の平等という考え方についてです。

 

多くの人間は

 

環境や遺伝子は変えられないけど、努力次第では何事もなんとかできるようになる。とくに、スポーツや芸術と違い勉強だけは努力次第で絶対にできるようになる。そして誰もがアメリカン(ジャパニーズ)ドリームを掴むことが可能だ。

 

という迷信を信じている、ないしは無意識に信じたいと思っています。

 

しかし、最先端の自然科学は、そう思いたい我々一般の人の願いを打ち砕きます。

 

『学力の経済学』という本がいつか話題になりましたが、資本主義経済で生きる我々にとって、「お金が稼げる=学力が高い」という等式が成り立っている以上、子供の学力の問題は社会科学的な問題です。

 

だからこそなんでしょうが、「学力だけは」平等な教育を施せば、後は個人の努力によってなんとでもなると皆さん信じたいんでしょう。

 

しかし、この本の著者によると

 

機会を平等にすればするほどどんどん格差は広がっていく

 

のが実情のようです。

 

筆者の主張を私がわかりやすく言い換えます。

 

例えば平安時代や今のエチオピアあたりですと、そもそも国民全員がまともな教育を受けていません。

 

そしてみんなまともな教育を受けていなければ、ある意味格差はゼロなのです。

 

我々日本人が明日ウルドゥー語のテストをするとしたら、みんな0点でしょう。

 

しかし、英語のテストをしたらできる人とできない人で「100点か5点か」くらいの大差が開くでしょう。

 

これは皮肉なことに、学校教育で皆が等しく英語を学ぶ機会があるからです。

 

等しい機会があるからこそ、遺伝子レベルの差が顕在化してくるわけです。

 

遺伝子というと誤解されがちですが、「遺伝レベルで才能がある」というのは「まるでやらなくてもできてしまう」という意味ではありません。

 

イチローや大谷がモザンビークのように野球がない国に生まれていて、彼らが20歳の時に野球をやって突然できてしまう、などということはあり得ません。

 

指導者や道具といった適切なマテリアルが用意されてこそ遺伝子レベルの差が顕在化するのです。

 

つまり、一般の人の願いとは裏腹に、機会が平等であればあるほど格差は開く一方なのです。

 

実は機会が平等であればあるほど遺伝子レベルの才能の差が顕在化するのです。

 

イチローも野球が盛んな国に生まれて、みんながそれなりに野球ができる環境だからこそ野球の才能が開花したのです。

 

アインシュタインも仮に全く同じ脳みそだったとしても、エチオピアで生まれていたらあのような偉業を達成できたはずがありません。

 

適切な教育環境を与えられたからこそアインシュタインの才能が開花したのです。

 

つぎに、当然遺伝子の議論では「能力」の話がよくでてきますが、一卵性双生児の研究等についても、別々に育った双子の所得や身長、学歴の相関関係などがフォーカスされやすいのですけど、それは結局そういった能力を現代社会が評価してるということです。

 

双子のそれぞれの親指の長さやギャグの面白さ、といった相関関係は全くデータとして出て来ませんが、それは現代社会でそれらの能力がそこまで重視されていないからです。

 

ここで筆者も言っておりますが、「能力」というのはたまたま社会が評価しているそれにしか過ぎないということです。

 

これを我々は忘れてはいけません。

 

この本にも書いてありますが、「料理を上手く盛り付ける能力」と学力やお金を稼ぐ能力ですと、当然現代社会は後者の能力を評価するわけですが、それはあくまでも我々の社会がたまたまそういった能力を評価してるというだけです。

 

よく遺伝の話で、優性・劣性という言葉が出てきますが、これほどミスリーディングなものもありません。

 

例えば、豆が「丸い」か「しわしわ」かといったお話が生物学に出てきますが、豆が丸いほうが「いい」とかしわしわのほうが「いい」とか、そういった事は自然界には存在しないのです。

 

同じように、身長が高いか低いか、ペ二スが大きいほうがいいか小さいほうがいいか、なども自然界には優劣として存在してるわけではありません。

 

あくまで自然界に優劣をつけているのは人間の価値判断でしかありません。

 

「年収や学歴が高い」のが価値があるように見えるのも、あくまでそれらを現代社会が過剰なまでに評価してるというだけで、生物や遺伝のレベルで考えたときに「年収が高い方が『良い』」とか「知能が高い方が『良い』」という考え方はありえないのです。

 

豆が「丸い」のと「しわしわ」なのとで特に優劣がないように。

 

実は「能力」というのもなかなかクセモノです。

 

例えば、特定の人間にはハンチン病を発生させる遺伝子があるのですが、本来適者生存の法則から言えば、こういった遺伝子を持っている人は死んで淘汰されるべきかもしれません。

 

しかし、現実にはそうはなっていません。

 

なぜか?

 

実はハンチン病を発生させる遺伝子はマラリアに対する対策をする遺伝子でもあるからです。

 

(ちょっとわかりやすくするために、自然科学では不適切かもしれない簡単な表現をわざとしてますのでお許しください)

 

つまり「身長が高い方が良い」、「IQが高い方が良い」というのもあくまでも「21世紀の日本や先進国」という前提の価値観ですからね。

 

時代や場所が変われば価値観や真実が真逆になるかもしれないのは、ハンチン病とマラリア病のお話を聞いたらわかるでしょう。

 

本当に「無駄な遺伝子を持つ人間」ならもう自然淘汰できなくなっているはずなのですが、そうではないからこそ生き残っているのです。

 

無駄な人間なんていない。

 

冷酷なようで最後は意外とヒューマニズムに満ちた結論になりましたね。

 

遺伝子と倫理の問題というのは、21世紀のビックイシューの一つでしょう。