読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

なぜ勉強をつまらないと感じるか

ひとつ前の投稿の続きです。

 

本来的に学ぶことや勉強する事は楽しいことのはずです。

 

それなのに、子供はなかなか勉強が好きになりません。

 

また大人でも本を読んで日々勉強している人は圧倒的に少ないものです。

 

なぜこのような状況になってしまうのか?

 

理由は大きく分けて3つほどあります。

 

まず一つ。

 

そもそも生徒の興味をうまく刺激するような本当に力量が高い人が教師をやらないという現状があります。

 

林修も言っていますが、総合的に能力が高い人は予備校講師や高校教師などやりません。

 

これが原因の一つ。

 

あとは、やはり勉強が「社会的選抜の手段」として機能していることが大きいと思います。

 

例えばサッカーであれば、Jリーグのレベル、ユースのレベル、地区大会のレベル、草サッカーのレベルといろいろなレベルがありますが、みなさんそれなりに楽しんでいます。

 

プロサッカー選手になるつもりがなければサッカーをやる資格がない、などという事はありません。

 

しかし、これがこと勉強になると、どういうわけだかみんながみんなかなり高いところを無理やり目指されます。

 

大げさに言えば、プロとまで言わないにせよ全員が甲子園や県大会ベスト4くらいを目指されるイメージです。

 

「草サッカーでいい」なんて許されないわけです。

 

なんで化学の専門家になるわけでもない人間が、あそこまで細かい有機化学を覚えるのか?

 

歴史の専門家になるわけでもない人間が、インドやフランスの王朝まで覚えないといけないのか?

 

サッカーで例えて言うと、本当に普通のサッカー少年に無茶苦茶な筋肉トレーニングや走り込みを強制しているようなものです。

 

本来であれば、「草サッカーのように勉強を楽しむ」のもアリだと私は思っているのですが、そんな適当な勉強は「テスト勉強」では許されません。

 

これは『遺伝子の不都合な真実』の安藤さんが言っていたことでもありますが、そもそも人によって学ぶ才能は全然違うわけですから、オリンピックやプロを目指す人とや草サッカーや草野球のレベルで満足な人がいたっていいわけです。

 

しかし、勉強に関しては皆さん同じ試験を受験して同じような尺度で判断されて、大多数の「できなかった人」は敗北感を持って勉強が嫌いになって社会に出ていく。

 

これがそもそも勉強嫌いが増える原因だと思います。

 

とは言え、上で述べましたように、現実社会の勉強のパフォーマンスは「社会的選抜の道具」として機能してしまっています。

 

草野球や草サッカーを楽しめるのは、ある意味それらのパフォーマンスが現実世界に影響がない「趣味」のレベルにとどまっているからでしょう。

 

しかし我々の生きている日本社会は知識情報社会なので、勉強の不出来は社会的選抜の道具としてものすごく強く機能してしまっていますから、「草野球レベルで良い」というのはなかなかの理想論ではあるのです。

 

結局政治哲学などで「マイノリティーと入学試験について」といった受験ネタがよく出てくるのは、勉強のパフォーマンスがどうしても社会的選抜においてものすごく重要だからです。

 

この趨勢を私一人の力で変えることなど当然できません。

 

ただ単にここでは現状分析をしているのみです。

 

また、「社会的選抜の道具」と関連してくることですが、勉強とテストは本来別のもののはずですが、勉強が社会的選抜の道具として機能するとなるとみなさんテストのために勉強します。

 

これが勉強嫌いを大量生産する原因だと思います。

 

もちろんドリル程度の最低限のチェックはいるでしょうけど、あまりにも大規模なテストでしかも1点刻みで差をつけるのはほとんどの生徒にとって幸せなことではないですし、非常に勉強が嫌いになります。

 

本来、そこまで暗記や勉強が向いてない生徒に関しては、細かいことなんて覚えないで「へー、こんな話があるんだ」程度の理解で十分だと私は思っています。

 

「平安時代の人はこんなバカなことをしていたらしい」

「微分っていうのはどうやら世の中の役に立ってるらしい」

 

細かい問題が解けなくても、こんな程度のことがわかるだけでも十分ではないでしょうか?

 

しかし、「だいたいわかる」生徒ばかりになるとテストでうまく差がつけられません。

 

また生徒同士の比較ができません。

 

どうせ後で忘れてしまうようなことをわざわざ覚えるあまり意味はないと思いますが、それでも「ちゃんと理解してるかどうか」を確認するというよりマルバツで採点がしやすいようなくだらない問題があまりにも特に理科や社会で多いのは、「選抜する側の事情」であり、「学ぶ側の事情」ではありません。

 

数学にせよ、計算ミスでもちゃんと減点をして差をつけますが、そんなささいなことで減点をしていたら、「学ぶ意欲」が湧くはずがありません。

 

「何年に何が起きた」といった問題は採点する側が採点しやすいだけで、そんなただの事実の羅列なんて出題しても何の意味もないと思いますが、「社会的選抜のためのテスト」ですから、そのようになってしまっているのです。

 

もちろん、小学生の漢字や四則演算など「生きる上でこれは絶対に知らないとやばいだろ」という知識やスキルももちろんあります。

 

ですから、「絶対にマスターするべき事」はさすがに好き嫌いを言わずにやらせるべきです。

 

ただ、高校レベルの勉強などは正直みんながみんなそこまで細かいことまでできる必要などありません。

 

別にサッカーが下手でもサッカーが好きな人はたくさんいますし、歌が下手でもカラオケ好きな人はたくさんいますが、なぜか勉強だけは基本的に得意な人しか好きじゃありません。(これって当たり前のようですごく特殊なことだと思いませんか?)

 

これは私のようにフィロソフィアの精神を持つ人から見ると残念で仕方ありません。

 

現代社会の構造と勉強のパフォーマンスはものすごく強く結びついているので、ここまで述べておいてみもふたもないのですが、特効薬的な解決策などありません。

 

ただ私が一般市民レベルとして申し上げたいのは、

 

「別にそんなに高いレベルじゃなくても普通に本を読んだりちょっと勉強したりするのはそれだけで楽しいものですよ」

 

という事実です。

 

ps「偏差値入門」とは打って変わったようなトーンだと思ってるかもしれませんが、これがまさに「多角化」、「相対化」ということです。内部の世界だけの話か、外から世界を相対化してるのか。そういうことです。