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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

社会は絶妙バランスで成り立っている

先ほど「読書は大切なんだぜ」と言いながらさりげなく自分の読書量マウンティングをしたカトハヤですが、考えてみると、私がそこそこ本を読んでて優越感を感じられるのは、あまり世の中の人間が本を読まないからです。

 

斉藤孝も佐藤優も「今の日本人は全然本を読まない、もっとみんな本を読むべきだ」とあきれつつマウンティングをしていますが、もし日本人全員が彼らと同じ位読書をしてしまったら、彼らの相対的な優位性はなくなります。

 

考えてみると、「他人にできるようになって欲しい」というビジネスは世の中に山ほどありますが、周りの人間があまりにもできるようになってしまうとそれはそれで失業なわけですから大変です。

 

例えば英語にしても、英語の先生は皆「日本人の英語力をあげたい」などと真面目に語っていますが、日本人の英語力が平均して今のTOEIC満点ぐらいのレベルになったら、英語の先生は失業です。

 

みんな英語ができないから英語の先生の需要があるわけですから。

 

料理教室だって、「みんなに料理ができるようになってほしい」わけですが、生徒が自分と同じ位料理ができるようになってしまったら料理教室は廃業です。

 

私ももうちょっと日本人はが学びの楽しさに気づけるようなブログや動画を作りたいと思っていますが、そうは言っても自分の優位性が失われるほどみんなが読書家になってしまっても困るわけです。笑

 

今よりはちょっと読書してもらって、でも自分の優位性はキープしたいという極めて虫の良い考えを持っています。

 

そしてそれは斎藤孝のような「読書や教養が大切なんだ」と説く人間にもあてはまります。

 

明治大学の学生が斉藤孝と同じようなレベルになってしまったら斎藤孝の相対的な優位性はゼロになるわけですから、そうなったら彼の存在意義はゼロです。(斎藤孝は明治大学の教員です)

 

結局、社会の不都合な真実として、「相対評価の領域」はできない人がいてくれるおかげでできる人が浮き彫りになるわけですから、ちょっと嫌な言い方をすれば、「人にものを教えるビジネス」は人の不幸で飯を食っていると言えなくもないわけです。

 

ちょっと違う例かもしれませんが、会社の経営者も「優秀な従業員が欲しい」と思ってはいるものの、従業員が自分と同じレベルで優秀であれば自分の相対的な優位性はなくなるわけですから実は困るわけです。

 

従業員はあくまで「そこそこ優秀だけど自分より仕事ができない方が良い」のです。

 

彼らが自分と同じレベルになってしまえば彼らは自分で独立したほうが儲かるわけですからね。

 

これが社会の不都合な真実です。

 

社会は絶妙なバランスで成り立っています。