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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

頭が良いことの価値

最近AIの本をいろいろ読んでいますが、いわゆるシンギュラリティーの時代はそんなに遠くはないようです。

 

 

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(この本面白いですよ )

 

人工知能が人間の知的レベルを超えてしまう時代をシンギュラリティーの時代と呼ぶわけですが、これについて「人工知能が人間を支配するのではないか」と素朴な疑問を持つ方もいるようです。

 

しかし「支配」の定義にもよりますが、人工知能がある点において人間の知能を上回ったところで、それだけをもってして人工知能が人間を支配するということにはならないでしょう。

 

それはちょうど人間より車のほうがずっと早いわけですが、別に車が人間を支配するという事にはならないのと同様です。

 

ただし、車や電車のおかげで「速く走れる」ことの意義は著しく減じましたが、それと同じようにシンギュラリティーの時代になると、「決められた答えを早くアウトプットする能力」(=現在の学校教育で高く評価されている能力)といったIQ的な能力は極めて無価値化するでしょう。

 

そもそも「必要な能力」は時代によって違います。

 

原始時代には獲物を早くたくさん取れる能力が、平安時代には和歌を詠む能力が、戦国時代には戦いに勝つ力が「必要な能力」でしたが、それらの能力は今現在必要ありません。

 

それと同じように、今の学校秀才が評価されている能力というのはシンギュラリティーの時代には意味がなくなるかもしれません。

 

人工知能をメンテナンスしたりさらに高度にするような一部の自然科学者以外の人間が物理や数学などを学ぶ必要がなくなるかもしれません。

 

それはちょうど和歌を詠む能力や100m走の能力が現在の入試や就職試験で必要とされていないように。

 

ボルトや桐生じゃないレベルで足が速いことがお金を稼いだり社会で活躍する上でほとんど意味がないように、一部の天才以外は英数国理社的な能力があったところでまるで意味がない時代が到来するかもしれません。

 

こういうことを言うとほとんどの人は、「そこまで極端なことは起きないでしょう」と私の言ってることを荒唐無稽だと考えるかもしれませんが、それは「現代の常識」で考えているからです。

 

平安時代に和歌に熱中してる人間に「和歌を巧みに読みたる力、遠きゆくすえの世にて、たへていらぬ力なるべし」(和歌を詠む能力なんて未来には全く不要になるでしょう)と伝えてあげたところで「いな、かかることゆめゆめおきるべからず」(そのようなことは決してない)と彼らはきっと言うでしょう。

 

我々が代ゼミだのサピックスなどで子供の偏差値アップに夢中になっているのは、平安時代の人間が和歌のうまさで人間の価値を決めている愚かさと何一つ変わらないと思います。(だからといって全く勉強させないことが良いという意味ではありません。「勉強ができれば幸せな未来が待ってるだろう」と考えている港区の馬鹿親に警告してるだけです)

 

人間は自分の世界の常識が「今後も続く普遍的な常識」だと信じる傾向があります。

 

また、「今価値があるものは未来永劫価値があるものだと思いたい」というバイアスがあります。

 

これは昨日お話ししました「そう考えたい」バイアスの一種でもあります。

 

人間は自分が価値を持っていると信じている対象に対して宗教のように執着するものです。

 

子供の受験に熱中している親御さんにこんな話をしてもどうせ聞き入れてもらえませんが、それは「処理能力や学力が高いこと、お金を稼げることが至上の価値病」という末期がんのような病気にかかっているからです。

 

彼らは現在の常識でものを考えていますが、シンギュラリティーの時代にはそもそも(受験学力的な意味での)頭が良い事の価値がなくなってるかもしれないわけですから、現在の常識でものを考えるほど愚かな事はありません。

 

そういった意味で、受験学力的な意味での頭の良さは価値がなくなりますが、「そもそもそれって意味があるのだろうか?」と考えるようなメタ思考はAI時代にも求めるられると思っていますけど、それですらひょっとしたら「現在のドグマ」であり、何か別の思考形式や進化があるのかもしれません。

 

ライト兄弟が「空を飛ぶ」と高らかに語ったとき、誰もが彼らを病気だと思いましたが、「常識に囚われてる病」に罹患しているのは彼ら以外の周りの人間でした。

 

平安時代の人間に、「人間はあのお月様に行けるんですよ」と話したら彼らは荒唐無稽だと感じるでしょうが、我々人類は現在それができます。

 

繰り返しますが、あらゆる常識を疑うことがシンギュラリティーの時代に生き抜くコツでしょう。

 

そして私は「常識を疑うことが大切だ」というテーゼすらドグマではないかと疑っています。

 

一つ確かなのは「未来はわからない」ということ。

 

お金があったり現在の社会で通用している地位やステータスがある位で安心しているととんでもない目に遭うかもしれません。

 

「頭が良いこと」は普遍的な価値でも何でもありません。