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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

わかりやすさの罠について

今日たまたま人に頼まれて就活のウェブテストを代わりに受験したのですが、久しぶりに「テストっぽいテスト」を受験して、昨日言及した「日本の教育の問題点」が自分の中で明確に浮き彫りになりました。

 

私は昔からマークシートの試験が全く得意ではなく(というかそもそもあまり試験が得意ではないので)、なんとなく日本の教育に対してうらめしさを感じていました。

 

(「得意ではない」というのは、周りの抜群にテストが得意な人に比べて「得意ではない」というだけで、世間の平均よりはそれでもできる方ですけど。)

 

特に私は国語の問題などが滅法苦手だったのですが、「自分ほど読書をしていて論述問題が解ける人間が解けないマークシートの問題なんて問題がどうかしてる」と「すっぱいぶどう」発言をしていました。

 

なんというか「正解」があらかじめ決められているということに非常に疑問と不満を感じていました。

 

あの小説家の平野啓一郎さんも「最初国語が苦手でしたけど、だんだん出題者を意識するようになってから得意になってきました」と発言していましたが、なんか非常に共感してしまいました。

 

そもそも国語の問題に「答え」があるなんて私には疑問で仕方なかったからです。(とは言え、これはあえてちょっと極端なこと言ってるだけで、もちろん「正しい解釈」というのは「ある程度」はありますよ、そりゃ。)

 

大体人生のほとんどの問題は「答えがない問題」です。

 

しかし、日本の学校教育の試験というのは、「答えが決まった問題」でどれだけ正確にアウトプットできるか、出題者の意図を汲み取るか、という「空気を読める人間」がトクをするようにできています。(しかし、「答えが決まった問題」で「すら」極端にパフォーマンスが低い人間に「考える力」があるわけがないので、必要条件・十分条件を間違ってはいけないでしょうけど)

 

また、中高年代では算数や数学などができると「頭がいい」と評されがちですが、これも要するに「わかりやすい」頭の良さですよね。

 

思想や哲学において深く考えられる人間の思索のプロセスなどは決してわかりやすくありません。

 

歴史に対する考察の深さなども「頭のよさ」ですけどわかりやすくはないです。

 

算数や数学のように答えが1つに決まってないですからね。

 

結局のところ、みんな「わかりやすい頭の良さ」を求めていて、「深い思考」よりは「答えが決まってる問題の事務作業」ができる人が「頭が良い」と評価されるわけです。

 

中高生時代には、「論文がすらすら読めて書ける」能力はそこまで高く評価されませんが、どうせ誰かが答えを出した数学の問題をあざやかに解けると「頭がいい」と評価されるわけです。

 

これも結局前者の能力は「わかりにく」く、後者の能力は「わかりやすい」からでしょう。

 

現代社会はあらゆるものが商品化され、わかりやすいものが売れる時代です。

 

「頭の良さ」なるものもなかなか複雑で、本来「定量化」になじまないものですが、そんな「頭の良さ」までもが定量化され序列化されます。

 

我々は、時間をかけて何かについて深く思索をめぐらせるようなことがなかなかできなくなっているのですね。