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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

なんで僕は

予備校のバイトを昔やっていて、このブログでもしばしばその手のネタについて投稿していますが、「ではなぜ教育産業の仕事をやらないんですか?」とよく聞かれます。

 

それはお金や地位とかの生々しい問題などいろいろあるわけですけど、私は少なくても予備校や私立学校で教員をやったりするのは「ないなあ」と思っています。

 

その理由は明確で、ほとんどの学生・生徒もその親も「手段としての勉強」、「社会的上昇のための勉強」を求めていて、「結果としての学歴やブランドが手に入ったら教養や学力なんてどうだっていい」というくだらない人間ばかりだからです。

 

「試験を突破してしまえば、大学の勉強や読書なんてどうだっていい」とほとんどの生徒も親も思っています。

 

「ああ、フィロソフィア(知を愛する)の精神や知的好奇心がある人間はほとんどいないんだな」というのが私が予備校講師をやっていて卒業生と話していて感じたウソ偽ざりのない率直な意見です。(マウンティングですが)

 

日本の学生を見ていてほんとに違和感を感じるのは、大学に入るのにやたらと勉強をしているのに、大学生や社会人になって勉強し続けている人間がほとんどいない点です。

 

これはマウンティングかもしれませんが(とあらかじめ逃げをうっておきますが)、私が日々接する社会人で、「この人はPhilosophyの精神や知的好奇心があるな」と感じる人は一流大学の出身者でも1割いるかいないかです。

 

つまり、ほとんどの高学歴な人間(受験勉強ができた人間)も社会的な上昇の手段として勉強をしてるだけで、本当に人生の血となり肉となるような「学び」をしていないわけです。

 

ただこれは個々人に問題があるというより、日本の受験システムに問題があるような気もします。

 

日本の大学受験制度の問題は、あまりに受験勉強と大学での学びの関係性が薄すぎる点です。

 

自分が進学する大学学部の教員を一人も知らないような人間が合格してしまうシステムは明らかに問題でしょう。

 

ただ単にテストの点が高い人間から受からしていくというのも考えものです。

 

本来はある程度アドミッションポリシーの理解や志望理由書といった総合的な判断材料で生徒を選抜するべきなのですが、ペーパーテスト一辺倒な制度は全く変わりません。

 

(ちなみにこういうことを言うとわりと低学歴の人は喜ぶのですが、だいたい今のシステムで低学歴に甘んじている人が「テストはそこまでできないけど、テストでは測れない素晴らしい知的な能力を持っていて、大学での勉強に向けて幅広い読書をして、すばらしい志望理由書が書ける」などということは事実上はありえないので、別にこれは現行制度でくすぶっている低学歴を擁護するために言ってるわけではありません、念のため。)

 

お金も仕事も、あらゆるものが「手段化」する時代の流れに受験勉強も飲み込まれてしまっており、「自分の人生」との関わりが見えずにただ単に勉強してる人があまりにも多いのが日本の教育の非常に残念なところです。

 

こういった現状で教育産業で働くのはあまりにも虚しいのです。

 

私は教育に関してゼロベースで(「メタレベル」で)考えていますが、私的な教育産業で働くという事は現行制度の枠内で働くしかないので、そこが非常にくだらないと思います。

 

そして世の中のほとんどの私立学校の教員や予備校講師は結局自分の仕事を正当化したいので、現行制度の問題点から無意識的に目をそらそうとしています。

 

(人間は「自分のやってることは意味がないことだ」なんて思いたくないバイアスがありますから、気持ちはわかるんですけど。)

 

機会があれば社会人向けの教養講座とかはやってみたいですけど、「試験で良い点を取ることだけに特化した勉強」のアシストにはそこまでやりがいは感じないですね。

 

まぁ日本の受験勉強は軍国主義のように、「意味を考えずにとりあえずつべこべ言わずやる」能力を身につけたり、不条理に耐えるトレーニングをするためのものとして全く意味がないとも思ってないんですけど、「philosophyの精神の涵養」には寄与しません。