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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

単なるマウンティングを超えて

シリーズモノのようにマウンティングについてお話をしてきました。

 

繰り返しますが、ただ単に自分の優位性を示すだけの発言や言説は非常に幼稚です。

 

もちろん究極的には、人は承認欲求やマウンティングの呪縛から自由にはなれないと思います。

 

自分が価値ある優れた人間だと認めて欲しい。

 

これはホモサピエンスという生物の宿命でしょう。

 

まずはこの事実を認めた上で、どういった方向性で考えていけばいいのでしょうか?

 

まず大切な発想が、発言の目的は複数のそれが共存して構わない、というものです。

 

ほとんどの人間の発言は、それが偉い評論家や学者のものだとしてもマウンティングである事は否定できません。

 

では、一切マウンティングをしてはいけないのか?

 

そんなはずもありません。

 

その理屈で言えば、究極的には私たちは何一つ話せなくなってしまいます。

 

そうではないのです。

 

あくまで「自分の発言の優位性を認めて欲しい」とい生々しい目的がありつつも、その意見なり言説が客観的にまともであり、一定程度の人間に支持されうるレベルのものであれば全く問題はありません。

 

問題は、ただただ自分の優位性を示すためだけのポジショントークに終始している人間です。

 

客観性や有用性が全くない、ただ単に自分を肯定するだけのくだらないマウンティングトークが問題なわけです。

 

政治や経済について発言するのも、別に絶対的に悪だと言ってるわけではありません。

 

要は、一見社会のために発言してるようなことも「所詮マウンティングである」という自覚を持った上でなされれば全く問題はありません。

 

世の中の言説の大多数が問題なのは、ただ単に自分を肯定するだけのポジショントークでありマウンティングにしか過ぎないのに、それをさも「普遍的真理」かのように述べているからです。

 

繰り返しますが、あらゆる発言や投稿は究極的にはマウンティングですし、それ自体に問題があるわけではありません。

 

本当に社会や他人に役に立つ言論であれば、「結果的に」自己顕示やマウンティングになっても全く問題はないのです。

 

私のブログも自己顕示、マスターベーション、マウンティング以外の何者でもありませんが、結果的に皆さんに面白いと思ってもらえればその存在意義はあるのではないでしょうか。