読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

勝つために議論したい人

半分2つ前の記事の続きですが、私は基本的に他人と議論をすることが嫌いです。

 

その理由は単純で、「勝つための議論」、「マウンティングとしての議論」、「自分の優秀さを示すための議論」という「議論のための議論」で悦に入る人ばかりだからです。

 

ハーバマスというドイツの哲学者も言っていますが、議論の目的というのは「真理の探究」であり、本来自分が議論に勝つかどうかなどというのはどうでも良い話です。

 

自分で言うのもなんですが、私は議論をしていて自分の間違いに気づくと「その点については完全に見落としていました、すみません。意見を修正します」と割と自分の過ちを認める方です。(これがそもそも「俺は達観しているマウンティング」ではないか、と言われるとみもふたもないですが。笑)

 

しかし、世の中の大半の方は、一度主張したことに固執し、自分の過ちをなかなか認めません。

 

そして論理的に反論することが厳しくなってくると、もはや「逃げ」とも言える謎のロジックでマウンティングしてきます。

 

「カトハヤ君も還暦ぐらいになったらわかってくるでしょう。まだわからないよ。」とマウンティングしてくるオジサマ。

 

「まぁなんというかいろいろな見方がありますよね」と完全なる白旗である相対主義を掲げたりする輩。

 

一般論を述べているのに「それは人によるね」と全くトンチンカンな主張をしてみたりする輩。

 

間違いを認めないというのは根本的に自分の知性に自信がない証拠です。

 

ある程度以上自分の知性に自信があると、「俺が分からないんだから仕方ないだろう」という発想になるみたいです。

 

昔私の友人で非常に勉強ができる人がいましたが、彼曰く「俺が解けない問題は誰も解けないから大丈夫」と非常にビックマウスで有名でしたけど、自分の知性に自信があるというのはこういう状態なんだろうなぁ、と側で見ていました。

 

自分に自信がないからこそ虚勢を張って間違いを認めないわけです。

 

日本人のとりわけ年配の「偉い人」は本当にその傾向が強く、「権威主義」で人の主張を捻じ伏せて来ますから、全く議論をしたいと思いません。

 

繰り返しますが、本来議論というのは「真理に達するため」にするものです。

 

「自分の優秀さを示すためのマウンティング議論」をしていると、逆説的に優秀じゃない人だと思われるというアイロニーにこういった方は早く気づくべきでしょう。(「というマウンティングをカトハヤはしている」と屁理屈は言わないでください。笑)