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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

あらゆる言説は我田引水

世の中には無限とも言えるほど様々な「意見」や「言説」があります。

 

論文や新聞の社説、本といった「それっぽい」ものから、おしゃべりやブログといったレベルまで、様々な「意見」があります。

 

しかし、私から言わせると、そのほとんどは検証に値しないほどレベルが低いものです。

 

なぜ世の中の言説はここまでレベルが低いのか?

 

自分を棚に上げて言わせてもらいますと、やはり

 

世の中のほとんどの人は無意識に自分の立場を肯定するポジショントーク的な事しか言わないから

 

です。

 

結婚できなかった女性や子供ができなかった女性は、「子供が全てじゃない」、「結婚が幸せじゃない」と延々と語ります。

 

お金持ちと結婚したくても結婚できなかった女性は、「専業主婦なんて旦那に食わしてもらっている」と息巻きます。

 

低学歴は「学歴なんて18歳のときのパフォーマンスにしか過ぎないじゃないか」と自己弁護を図ります。

 

起業して成功した企業家は、必ずと言っていいほど「サラリーマンは社畜。起業こそが素晴らしい生き方だ」ととにかく経営者を礼賛します。

 

ミスコンに反対する女性のほとんどは、どう考えても美人とは言い難い人間ばかりです。

 

これらは少し「俗的」な例ですが、かなり一見高尚と思えるような分野ですら、そのほとんどの言説は単なるポジショントークです。

 

例えば、出口治明さんのような人格者に見える経営者ですら、「今の大学生を見ていても、みんなアダムスミスやケインズあたりすら読んでないんですよね。アダムスミスやケインズくらい当たり前だと思ってハイエクを薦めるのですが、それ以前の問題のようですね」、「皆さん伝統とか歴史とか言いますけど、『じゃあ源氏物語読んでますか?』と聞いてみると、結局読んでないんですよ」といった「マウンティングトーク」をついついしてしまっています。

 

こういった発言は上の例と違って、「まっとうな意見」に見えるからこそタチが悪いのです。

 

本当は、「教養人である自分」を肯定したいがゆえのポジショントークですが、「一見正論」なだけに余計に悪質だと私は考えています。

 

佐藤優あたりも似ているタイプですが、人に教養を強要(ダジャレ)するような言説はそのほとんどが、「隠れたるマウンティング」です。

 

結局結論として自分の教養レベルを自慢するための言説に落ち着いています。

 

ホリエモンも典型的なポジショントーカーですね。

 

「男は顔じゃない」

「東大以外は行く意味がない、早慶バカ」

「サラリーマンなんて社畜だ」

etc

 

私から言わせると、「いやいや、堀江さん、これって結局あなたが有利になる土俵設定をしてるだけですよね?」と勘ぐりたくなります。

 

さまざまな例を挙げてきましたが、結局あらゆる意見というのは、「自分を肯定するためのポジショントーク」であり、検証するに値しないくだらないものです。

 

そもそも検証するべきか否かの一つの基準として、

 

その人がその意見を言うことによって彼(彼女)に有利な土俵に引きずり込もうとしてはいないか?

 

結果として自分が勝てるからそういった意見を言ってるのではないか?

 

自分ができない言い訳をしてるのではないか?

 

こういった視点を大切にするべきでしょう。

 

私は基本的に、あからさまなポジショントークをする人間の意見には全く耳を傾けないようにしています。

 

私は何か意見を言う時に、

 

「いや、これって結局、我田引水なんじゃないか?」

 

「自分ができないから僻んで言ってるんじゃないか?」

 

といった自問自答は必ずするようにしています。

 

そしてたまにあえて確信犯的に言ってる時もありますが、当然自分でわかっています。

 

究極的には、自分ができないことを肯定していたり、自分ができることを否定したりするような言説こそが「傾聴に値する」意見だと私は思っています。

 

人は自分が勝てる土俵で勝負するべきですし、勝てる土俵を探すことは大切です。

 

しかし、「一般論」で「人間は○○するべきだ」と主張するのは大きな間違いです。

 

ホリエモンの例で言うならば、「俺は決してイケメンじゃないから、顔を重視しない女の子にもてるようにしたい」、「俺は人付き合いが苦手だから、会社勤めより起業のほうがいい」と言うのならばまだわかります。

 

しかし、その「自分が勝てると土俵設定」を「一般的な真理」かのように語り始めるとおかしなことになる、というだけです。