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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

牛を殺しているから牛丼が食べられる

「われわれは100%死ぬのだ、という事実から目を背けてわれわれは生きている」というお話をこないだしました。

 

ハイデガーのダスマンですね。

 

ところで、社会が発展すればするほど分業が進展し、我々は太陽系の地球という惑星に生きている生物にすぎない、という当たり前のことを忘れがちなように思います。

 

分業が進展すると、牛や豚を自ら屠殺しなくてもそれらを食べられますし、自分で米や小麦を作らなくてもそれらを食べることができます。

 

電車の運転も道路工事も自分でする必要はありません。

 

我々は吉野家や松屋で当たり前のように牛丼を食べていますが、どれだけの人が「目の前の牛丼の肉は、牛の命を奪った結果存在している」という事実を日々かみしめているのでしょうか?

 

ハイデガーが「我々は死を隠蔽しながら生きている」と『存在と時間』で語っているお話をしましたが、これは我々の近代化と無関係ではなさそうです。

 

貨幣経済の進展により、我々は自分の手で牛を殺さなくても牛を食べることができます。

 

しかし、その代償として「牛を殺して、その命をいただいている」という当たり前の事実を認識できなくなってしまっています。

 

もはや目の前の牛丼はカバンや靴と同じ「製品」であり、「生き物の肉」であるという感覚すら私たちは失っているように思います。

 

生き物を殺してその命をいただいているという感覚が欠如しているという事は、自らの生の有限性から目をそらすことにつながります。

 

われわれは生きています。

 

そしてわれわれが食べている牛も豚も我々と同じように生きている生き物でした。

 

その命をわれわれはいただいているわけです。

 

「いただきます」とはまさに「命をいただきます」という意味なわけですからね。

 

人間は、植物のように光合成だけでは生きられない業深い存在です。

 

われわれは、どうしても他の生き物の命をいただかないと生きられない業深い生き物なのです。

 

われわれはこういった当たり前の事実を認識する必要があると思います。

 

それは

 

われわれのために犠牲になってくれた他の生命体に感謝するために。

 

われわれのエゴを自覚するために。

 

そしてわれわれも彼らと同じように限りある生を生きている、という事実を忘れないために。

 

https://youtu.be/C0O5tjDQOhM