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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

「自分の実力」という虚構

よく様々な文脈で、「それは実力ではないよ」という発言をする人がいます。

 

「それは本人ではなく事務所の力」

「それは本人の実力ではなく親の力」

「帰国子女は英語ができて有利だから受かったのは実力じゃないね」

etc

 

しかし、私から言わせると、そもそも「確固たる個人の実力」なるものはどこにも存在していません。

 

確かに親のコネや事務所のネットワークで成功した人間を羨ましがる(妬む)人間の気持ちは分かります。

 

しかし、一見自分の実力だけでのし上がっている人間も、結局遺伝レベルで優れた能力を与えられていたり、人間関係で恵まれていたり、どこまで自分の実力なのかといぶかしげなところもあります。

 

例えばものすごく家庭が裕福で成功した人間と、家は貧乏だけど鬼のような能力を持って生まれてきて成功した人間がいたとします。

 

なんとなく「自分の実力で成功したように見える」のは後者であって前者は「自分の実力ではなく親の力」と見えてしまいます。

 

二代目の馬鹿な政治家などはそのような目で見られます。

 

しかし、後者のような天才的な能力を持って生まれてくること自体がそもそも運がいいわけです。

 

例えば全然練習しなくてもプロ野球選手になれてしまったり、全然勉強しなくても勉強ができてしまったりする才能を持つ人は一定数いますが、これも結局生まれ持った運勢がいいだけですよね。

 

私はイチローや大谷翔平、ボルトあたりは基本的に運がいいだけだと思っています。

 

ホリエモンも孫正義もそうですけど。

 

生まれ持った能力や努力する才能に決定的に恵まれているからです。

 

それは個人として「偉い」という事にはなりません。

 

高校生・受験生の時、帰国子女がすごく英語ができて「ずるい、ずるい」と言われてましたけど、私はすごい不思議だと思っていたのが、数学のセンスが生まれ持ってめちゃくちゃある人間は「ずるい」とはならない点です。

 

しかし、なぜか帰国子女は「ずるい扱い」されるわけです。

 

これも結局、「親が金持ち」なのはズルく見えて家庭は貧しいけど能力にめちゃくちゃ恵まれている人間は「ズルくない」のと構造的には似ていますが、普通の人間は表面的な現象しか見えないのでしょう。

 

別に、生まれ持った能力が高かったり、生まれ持って数学のセンスがあったりするのは、たまたま帰国子女で英語ができたり、たまたま美人に生まれたり、たまたま身長が高かったりするのがただ単に遺伝的に運がよかったというのと同じ位運がいいだけだと思っています。

 

なぜか見た目やスポーツなどと違って勉強やホワイトカラーの仕事だけは、「才能ではなく努力」という目で見られがちですが、私から言わせると勉強も仕事も生まれもった頭と努力できる才能で9割は決まっています。

 

結局「実力」云々が議論になるのも現在の日本が近代の延長線上にあるからでしょう。

 

思想史的の意味での「近代」は「作為」に特徴があります。

 

「自然を自らの手によって変えていきたい。

 

そして、人間には自由意志があるからそれが可能である。」

 

これが近代の前提ですが、冷静に考えてみると様々な観点からこういった考え方に綻びが出てきているのがポストモダン的な現代の時代的な特徴です。

 

むしろ東洋思想的に考えると、自由意志や自分の実力なる概念はそもそも存在しないと思った方がいいです。

 

東洋思想の「縁起」こそが真理です。

 

人間は「自分は価値ある存在だと思いたい」からこそ「自分の実力」なるフィクションを生み出したわけですが、私から言わせると、そもそも人間は他者との関係性において生きていますし、親や先祖がいるから今の自分が存在してるわけで、「自分の実力」なんて最初から存在していないのです。

 

「それは自分の実力じゃないよ」なる発言をしている人は、それが分かっていません。

 

ちょっと面白いオチですが、まぁそんなことがわからないくらい頭が悪いのも生まれ持った遺伝子と家庭環境などが悪かったゆえであり、個人としての責任はありませんので。笑

 

正しい判断ができないのも遺伝と教育のせいですから、仮に私が正しく彼らが間違ってるとしても、私が偉いというわけではありません。

 

私は「自分のほうが正しいことを言ってて偉いと思いたい」だけで、事実はそうではないわけです。