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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

持続する幸福とは何か

半分続きですが。

 

前の投稿をまとめると

 

・いくら年収を増やしても一定のラインから先は幸福度と関係ない

 

・それは人間はどんな状態にも慣れる動物だからだ

 

・ある程度年収が上がってくると、生活必需品や趣味とは別の「見栄張り代」の出費が多くなるが、「見栄張り」は究極の相対評価である以上幸福を生まない

 

・とは言え、まぁお金はあるに越したことがないから、「ラクに年収2000万円」とかを目指せる人は目指したらいいが、「すごく頑張って年収600万円を1500万円にする」のはコスパが悪い

 

こんなことを主張したわけです。

 

結局私が言いたいのは、物質的な幸福には絶対「慣れ」る以上、幸福感は持続しない、という点です

 

何度か言っていますけど、私はタワーマンションの30階にいますが、住み始めて6年でもはやかなりの程度デフォルト化しています。

 

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友達を連れてきたりすると、ちょっと褒められたりするので嬉しいですけど、もはや普段の生活では学生時代のボロアパート住まいの時と何一つ変わらない位デフォルト化してしまいました。

 

まぁ、私はそこまで頑張って朝から晩まで働いてるわけではないので別にいいんですけど、タワーマンションやメルセデスを手に入れるのに労働時間を増やして、例えば朝の9時から夜の25時まで働くような生活をする位なら絶対にやめたほうがいいです。

 

「コスパ」の問題です。

 

物質的な贅沢なんてどうせある程度慣れてしまうわけですよ。

 

こういうことを言うと「じゃあお前大宮のアパートに住めよ、代官山のタワマンじゃなくて」といった意地悪な反応をする人もいるでしょう。

 

しかし、残念なことに、もはや私にとっては今の自分がデフォルトなので、大宮や柏のアパートに住むことはできません。(まぁ、どうしてもそうせざるをえなくなったら慣れるでしょうけど)

 

生活水準が上がることの怖さはここにあります。

 

一般的に高い生活水準ですら自分にとってはデフォルト化するので、もはや一般の人の普通がものすごく低く感じられる訳です。

 

そう考えると、生活水準を上げるというのは非常に麻薬的なのです。

 

なので、頑張らないで生活水準を上げられる人はいいですけど、ものすごく頑張って生活水準を上げるのは二重の意味で危険です。

 

一つには、何度も言っているデフォルト化の話。

 

そして、それと関連しますが、一度生活水準を上げると、今度は元に戻った時にすごく不幸になるのです。

 

年収500万円から年収2000万円になって、その後500万円になると、「元に戻る」わけではなく、「元より不幸になる」事は忘れてはいけません。

 

それだったら、朝9時から18時まで働いて、埼玉や千葉に住んで年収500万円とかの生活をするほうが絶対にコスパが良いです。(ま、年収500万円って日本人全体から見るとなかなか所得高い方ですけど、、)

 

では結局人間は何から幸福感を得るのが一番なんでしょうか?

 

それは究極的には

 

・好きな人間と一緒にいる(嫌いな人間と一緒にいない)

 

・(できればあまりお金がかからない)好きなことを見つける。サッカーとか野球とか、将棋とか読書とかブログとか、そういったものですね。

 

・家族や子供と過ごす日常に楽しみを見出す

 

こういったところだと思います。

 

子供と遊んでいて飽きたり、好きな本を読んでいて飽きることってあまりないような気がします。

 

もし私が死ぬほど働いてポルシェやタワーマンションを手に入れたとして、そういう生き方をしたら人生最後の日にすごく後悔するような気がするのです。

 

結局自分って何のために生きていたんだろう。

 

全部人に見栄を張るための人生だったな、と。

 

もちろんある程度承認欲求を満たしたいのは人間の本性ですからわかります。

 

しかし、東京の港区などではそういった価値観「だけ」で動いてる人があまりにも多く、「自分の物差し」で動いてる人間があまりにも少ないように思います。(ただし、人間は社会的な動物ですから「完全なる自分の物差し」なるものはそもそも存在しませんし、あくまでこれは壮大的な概念ですが)

 

それからちょっと論点がずれるかもしれませんが、基本的にあまり人生に期待しないことです。笑

 

私も若い時は色々と大志を抱いていましたけど、オジサンになってわかったのは、

 

そこそこの目標掲げつつ生きるのは結構だけど、あまりに高い目標持つ人生は期待しすぎるがゆえに不幸になりやすい

 

ということです。

 

大学受験でも、慶応に進学して大喜びする人もいれば一生屈辱を感じるほど悲しい人もいます。

 

それは前者のタイプは地方出身の私立文系型タイプなどで、そこまで期待していなかったからです。

 

「自分は医学部や東大なんてとても無理」だと思っているから慶応で十分満足なのですが、灘や開成にいて東大受験に失敗して慶応に進学した人間は一生コンプレックスです。

 

それは、「俺様位頭が良ければ東大法学部に行って財務官僚になるのが当然だ」と心の奥底で自分の能力に期待しすぎていたからです。

 

私も現役で受験に失敗したときに世間ではかなり一流と言われている大学にも受かっていましたが、やはりそこでは嫌だと思って浪人しましたけど、中途半端に成績がいいとどんどん不幸になるわけです。笑

 

特に日本や韓国は学校が1ミリ単位で縦に並んでますから、関西圏以外から東大を断念して京大に来たやつで欲求不満のやつもいましたし、東大生でも希望の類に行けなくてコンプレックスを抱いている友人もいましたが、これも過剰なまでに期待してるからこそ東大生や京大生なのに学歴コンプレックスがあるわけです。

 

私の幸福に関する考え方は、かなりの程度この時の自分が下敷きになっています。

 

自分の能力を信じるのはいいと思いますけど、自分の人生や能力に期待しすぎるのも不幸への道ではないかと思います。

 

特別なことがない日常に幸せを見出せるようになる方が、ちょっと成功したりお金持ちになったりすることよりもずっと大切だと思います。

 

ただ散歩して青空を見て幸福を感じたり

 

子供と遊んでいて幸福を感じたり

 

こういった些細なことに幸福を感じられるようになれば、圧倒的に「強者」ですよ、社会的に強者ではなくても。

 

ちなみに、当たり前ですけど、これは全て私の考えです。

 

読者の皆さんも、ご自身なりに「自分にとって持続する幸福とはなんだろう?」と自問自答すると自分の進むべき方向が見えてくるでしょう。(上から目線ですみませんが)