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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

画一的な教育について

プロフィールにも書いてありますが、私は学生時代に予備校講師をしていましたから、日本の教育について非常に関心があります。

 

もちろん、どんぶり勘定で「肯定」や「否定」といった矮小化した言説は慎むべきですが、今日は少し日本の教育の否定的な面を強調したいと思います。

 

日本の教育の最大の問題は、画一化した基準で生徒を序列化する点でしょう。

 

たしかに、私は人間や社会が成長する上で競争や順位づけというのは一定程度有用だと思っています。

 

健全な競争によって社会が活性化する面は否定できないからです。

 

しかし、そうは言っても日本や韓国のように偏差値や点数による画一的な基準でものすごく細かく生徒を序列化するのは、本当に一握りの勝ち組の人間以外にとってはあまり良いものではありません。

 

当たり前ですが、本来人間の能力とは非常に多面的で、なかなか数字や定量化に馴染むものではありません。

 

それを無理やり「ペーパーテストが得意かどうか」というたった一つの基準(点数や偏差値)で序列化し、「だいたい一緒」と言えるようなレベルですら細かくレイヤー化します。

 

ノーベル賞受賞者を見たらわかるとおり、彼らは別に全員が東大や京大の出身ではなく、中村さんや大村さんはいわゆる駅弁大学の出身です。(ま、でも逆に明らかな二流大学の出身者もいないという事は、テストも「そこそこ重要」という事なんですけど。)

 

偏差値教育では頂点に立つ東京大学の理科3類からノーベル賞受賞者が1人もいないというのは、「日本の教育の失敗」を象徴しているように思います。(ちなみに、京大医学部もゼロです)

 

つまり、私が言いたいのは、「優秀かどうか」など基準や物差しによって決まることであり、日本の大学受験で失敗したからと言って、「優秀ではない」ということにはならないのです。

 

基準や物差しが変われば当然「優秀は人間」なんて変わります。

 

スポーツだって、「野球」で比べるか、「サッカー」で比べるかで「アスリートとして優秀かどうか」なんて全然変わるわけでしょう。

 

香川真司なんて、あの体格なら野球をやっていたら甲子園にも行けないレベルだと思います。

 

それがサッカーという土俵だとあそこまでレジェンドになるわけで。

 

香川真司は「サッカーなら優秀」ですが、「野球なら優秀ではない」という評価になるわけです。

 

逆に阿部慎之助なんて、あの体型でサッカーをやったら90分走れるはずがありません。

 

阿部慎之助は「野球なら優秀」ですが、「サッカーなら優秀ではない」と言えるでしょう。

 

こういった具体例を考えるとわかると思いますが、どういった人間を優秀と扱うかどうかは極めて恣意的です。

 

ペーパーテストができるのは、人間の能力の一部が高いという事にしか過ぎないわけですが、日本社会だとそれがものすごく「拡大解釈」されるわけです。

 

東大や京大などのブランド大学を出ていると「頭がいい」と拡大解釈されます。

 

まぁ、率直に言って、東大生あたりは論理的思考力や処理能力といった面に関しては「頭がいい」と言ってある程度差し支えないわけですが、「起業家として頭が良い」、「研究者として頭が良い」、「哲学的な思考が深い」といった意味で「頭がいい」のかと問われたら「人による」としか言いようがありません。

 

「頭がいい」という表現はなかなか威圧的ですけど、はっきり言って、スポーツの例が非常にわかりやすかったと思いますが、「頭がいい」もどういった頭の良さを基準にするかによってまるで結論が違ってきます。

 

偏差値と研究能力等の真の頭の良さが正比例ならば、東大理3からノーベル賞受賞者が出ていないことの説明がつきません。

 

なぜ東大理3や京大医学部からノーベル賞受賞者が出ていないのに神戸大学、山梨大学、高知大学からノーベル賞受賞者が出ているのか?

 

この事実を日本人は再考してみるべきです。

 

そしてこういった事実が明らかにしてるように、あくまで偏差値が高いというのは、「テストができる」だけなのですが、それを持ってして「あの人は優秀だ」、「あの人はたいしたことない」と拡大解釈している、という愚かさについて気づくべきです。

 

ちなみに、私は時と場合によっては「学歴至上主義」的な発言もしますが、私はここまでわかった上であえて言っているのです。

 

つまり、世間の人間が「東大理三、頭いい!」、「早稲田政経すごい!」と言うのと私がこういったネタについて言及するのはちょっとレベルが違うのです。

 

世間の人間はおそらくたいして考えもせずに「東大理三すげー、頭いい」、「早稲田政経頭いい、すげー」と漠然と高い評価を与えていると思いますが、私の場合あくまで「ああ、18歳のときの処理能力と論理的思考能力と努力する能力は凄かったのね」と限定した上での評価ですから。

 

でもほとんどの東京の人は、高学歴の人に対して、そういった限定的な評価ではなく、完全に「神扱い」であり「礼賛」であり「人間として尊敬」なんですよね。

 

とは言え、私も京大だからうまいことそういった評価を利用してるわけですが、内心「京大だから頭が良い」とか思っている人間をバカだと思っています。

 

(ま、馬鹿な人間に馬鹿にされないためにもある程度学歴はあったほうがいいと思ってますけどね。)

 

そして、マクロな目で見たときにこういったシステムの何が問題かというと、「ただ日本の受験競争に向いていなかった」だけで「自分は優秀じゃないんだ」と自分を過小評価してしまう点です。


テストはできないけど・・


ひょっとしたら営業はピカイチかもしれない


ひょっとしたら研究者として優秀かもしれない


ひょっとしたら美容師として優秀かもしれない


ひょっとしたら料理人として優秀かもしれない


etc


繰り返しますが、所詮優秀さなんで基準次第です。

 

例えば私はおそらく日本式のテストだったら財務官僚や山口真由あたりには勝てないでしょう。

 

しかし、自画自賛しますけど、絶対私の方が彼らより哲学的な思考は深いですから。笑

 

これちょっと負け惜しみみたいだけど。笑

 

「アスリートとしての能力」をサッカーで比べるか野球で比べるか。

 

それと結局一緒です。

 

たまたま一つの土俵で適性がなかっただけで、「自分はだめな人間だ」と過小評価するマインドを醸成するのが日本の教育の最大の問題です。

 

価値多元社会と言いますか、様々な価値が世の中にはあることを知らせるのが大人や教師の役割だと思うんですけどね。

 

※ちなみに、ここで書いてることと全く矛盾する(ように聞こえる)ことを他の記事で言っていますが、厳密には矛盾はしていません。

「マーチならエントリシートがシュレッダー行きです。一流企業に行きたいなら最低早慶位行ってください」、「明治の早稲田へのコンプレックスはとてつもない。一生屈辱だから浪人したほうがいい」などと言ったりしてますが、それは「現状の日本人の価値観や社会制度を前提」にした上での「現実的なソリューション」であり、「私が考える理想形」ではないのは大前提です。

この記事を読んでいただければ、いかにそういった画一的な基準で優劣をつけることが「本当は」愚かであるがわかるでしょう。(「本当は」がミソです。現実は違うのです。)