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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

なぜ人間はこんなに利己的なんだろう

これは極めて哲学的な話なのですが。

私は子供の頃から「なぜ自分はこんなに利己的なのか」ということをずっと考えていました。

ちなみに言っておくと、別に私が世に言う所の自己中人間というわけではなく、もっと深いレベルの話です。

例えば小学校の時も「自分だけ徒競走で1番になりたい」、「自分だけいい点を取りたい」、「みんな持ってないおもちゃが欲しい」とかそういった感覚はなぜ生まれるのか常に考えていました。

どれだけ仲の良い友達と言っても、やはりどこまでいっても「他者」なのです。

どれだけ仲の良い友達に「加藤、1000万円貸してくれよ、事業やるから」と言われても、やはり私はイエスとは言わないでしょう。

悲しいことを言えば、どこまでいっても自分の家族以外は所詮他人なのです。

しかし、これは我々一人ひとりに責任があるというより、ある種の生物としての限界なのです。

例えば我々の身体は、細胞からできています。

しかし一つ一つの細胞に自由意思はなく、基本的に「わたし」という意識の支配下にありますから、原則的に細胞と細胞が喧嘩する事はないのです。(私は生物学の専門家ではないのでひょっとして間違ってたらごめんなさい)

細胞Aが細胞Bを嫉妬する、ということも、細胞Cが細胞Dにマウンティングするという事はないのですが、それは細胞は「わたし」というチームを構成する要素だからです。

細胞同士の「違い」はたいした「違い」ではないのです。

やはり、大きな境界線は「わたし」と「わたし以外」に引かれており、この境界線というのはどこまでいっても埋まる事はない断絶です。

結局我々がそこまで私財を投げ打ってまで人助けに集中できないのは、我々が自己中というよりも我々の「意識のあり方」に問題があるようです。

先程の話ですが、小学校の徒競走でも自分と友達が意識として独立しているわけではなく、感覚が仮にヒュージョンしてくれたら「わたし」と「友達」の存在的な差は原理的になくなりますから、自分だけ得をしたいという感覚はそもそもなくなります。

同じように、友達が困ってる話を飲み屋で聞いてもその3日後にはやはりちょっと忘れています。

それは結局我々の「意識」とその友達の「意識」が別物だからです。

私とその友達の意識が仮にヒュージョンできるとしたら、私は起きているときに常に彼の痛みを肌感覚で感じますが、我々の存在や意識というのはそうはなっていないのです。

結局あらゆる社会問題の根源にあるのは、我々の意識が独立してることにありそうです。

我々がいくら共感の力に満ちている動物だといっても、所詮その共感は持続しないのです。

なぜならば、何かを感じる主体が別のものだからです。

みもふたもないことを言ってしまうと、人間の存在や意識がこのようなものである限り、究極的に社会問題の解決は根源的には不可能です。

本当にみもふたもないことなんですが、ちょっと思ったことです。