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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

それは僕にとって意味があるか

ある程度読書好きの人間なら誰もが自問自答するのが「自分は果たして世界中の本のどれだけを読むことができるのだろうか」という問です。

そしてこのことを考え始めると、非常に暗澹たる気持ちになります。

橘玲も著書で言っていましたが、所詮短い人生で読める本などは出版された全ての本の0.000001%程度で、ちょっと頑張ったところで0.000001が0.000007に変わる程度の意味しかありません。

そう考えると「今まで読んでいる本の量」などは「セックスの体験人数」位どうでもいいことなのかもしれません。

私も青年時代は真面目でしたから、いかに多くの本を読み、知性と教養のある人間に見られるか、そして読書の間にどれだけ効率よくセックスをするか、を常々考えていましたが(もちろん純粋な知的好奇心もないわけではないですが)、読んでる本の質や量などを人と競うというのは極めてくだらないことです。(それに気づいたのはつい最近のことなのですが。)

結局、人間が短い一生で知れることや考えられることなど本当にタカが知れているのですから。

「知識人」と呼ばれている人にも、本を読んだり知識を身に付けることが「目的化」している人が散見されます。

佐藤優や成毛のような来歴が微妙な知識人にありがちな傾向ですが、やはり「なめられている」というルサンチマンが根底にあるせいか、「俺を認めてくれ、俺はこんなもんじゃないんだ」と知識をひけらかす性癖が気持ち悪い位に見受けられるのです。

彼らは、マウンティングとして他者にみせびらかすために知識を身に付けているだけにしか私には感じられません。

これでは根本的な方向性が間違っています。

学ぶ上で何より大切なのは、「自分にとって意味があるかどうか」、「自分が楽しいと感じられるか」です。

自分の人生にとって意味があるか。

究極的にそのメルクマールで学ぶか学ばないかを決めたら良いのです。

大谷投手も亀田兄弟もおそらくまるで知性や教養はないでしょうけど、思弁的な教養等、別に彼らの人生にとって必要がないものである以上、別に無理して学ぶ必要はないのです。

そしてそれは我々一般人でも当然当てはまる話です。

自分の人生にとって意味があること、自分の興味があることだけを学べば十分なのではないでしょうか。

最近はそのように考えています。

「教養の強要」は寒いです。