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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

翻訳機とヅラ

何回かにわたって「翻訳機と外国語産業の未来」というお話をしてきましたが、ちょっと自分が言ってみたことを批判的に考えたいと思います。

昨日私が言ったのは、以下の趣旨です。

「コンタクトレンズやレーシックを『ズルい』、『不自然だ』と感じる人がいないように、腕時計のような翻訳機の使用を『ズルい』、『不自然だ』と感じることもなくなるだろう。なので、英語業界や英語教育は衰退の一途を辿る」と。

しかしこの考え方は間違っていたかもしれません。

厳密には、「実用目的」で英語を学ぶ必要はなくなるかもしれませんが、「承認目的」の英語学習は完璧な翻訳マシンができてもなくなる事はないと考えを変えました。

我々の社会には様々な道具や技術がありますが、我々が認めるものと認めないものがあります。

例えば、コンタクトやレーシックをして遠くが見えるようになった人を「ズル」だとは思いません。

車を使って遠くに行けることを「ズル」だとは思いません。

しかし、われわれは整形手術やカツラを「ズル」と感じます。

ズラはズルなのです。笑

それは何故かというと、社会一般の認識として「自分の目で遠くまで見ることができる」ことや「自分の足で速く走ることができる」ことはそこまで価値があることではないので、別に道具を使ってもいいのです。

しかし、我々の社会は女性が容姿端麗であることや知能や知性が高いことを過剰なまでに評価しているので、そういった評価される価値に関しては「自分の生まれたままの生身の体」でできないと「ズル」と感じます。

だからこそたとえ完璧な顔の整形技術ができても、「所詮あの子は整形美人」という価値観は根強く残るでしょう。

完璧なカツラができても「あの人は『本当はハゲ』」という価値観は根強く残るでしょう。

同じことが英語や翻訳マシンにも言えて、実用レベルでもし完璧な翻訳マシンができても、「自分の口からすらすら英語が出てくる」ことと「同じ」にはならないと思うんです。

「なんだ、あの人翻訳機使ってるんだ」という感覚は顔の整形手術と同じようになくなる事はないような気がします。

それは、我々が知性や知能が高いことを過剰に評価している価値観を根強く持っているからです。

整形美人が認められないように、翻訳マシンを使って英語ができていることは認められないのかもしれません。(これは20年後になってみないとわからないところですが)

私は最初「実用か教養か」という「二択」でモノを考えていましたが、ちょっと抜け落ちていた視点が「他者からの承認のための外国語」という視点です。

古代ギリシャの「バルバロイ」ではないですが、口からスラスラ外国語が出てくるというのは承認や軽蔑の対象であり、実用レベルとは別の視点で他者からの承認を求めた学習者のニーズを満たすための英語産業は完全になくなる事ははいかもしれません、縮小するのは間違いないですが。