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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

自由意思や自由な意思決定という幻想

自己責任、自立、理性、主体性、自立的な判断、自己決定権、自由意志、「自分」

もしこれらを素朴に信じてる人がいたら、少しstupidです。

人は他者と共に社会で生きている以上、自立も主体性も正しい自己決定も自由意志も全て幻想です。

我々の判断はかなりの程度社会に影響を受けています。

小中学生の部活で、私が卓球でもなくハンドボールでもなくフェンシングでもなくサッカーを選んだのは、「サッカーが流行っていたから」という他ありません。

すべてのスポーツを綿密に比較検討して「サッカーが一番自分の適性を生かせそうだ」などと判断したわけではありません。

港区にセカンドハウスを借りたのも、「港区のタワマンはかっこいい」と社会に洗脳されてるからです。(が、洗脳されてる自覚があるだけで100倍マシですが)

本が好きなのも、生まれ持った知的好奇心もあるでしょうけれども、「本を読んでいる人間は素晴らしい」という社会の価値観を受け入れた結果でしょう。

出川治明さんや養老さん、佐藤優がスピーカーのように「本なんて二流で、テレビを毎日3時間見る人間こそが教養人」とあらゆるメディアで唱えていたら、私は読書家になっていなかったような気もします。

下手したら自然をどう見るかもかなりの程度社会の影響を受けている気がします。

「沖縄の青い海が美しい」というのも1つの価値判断でしょう。

九十九里や鎌倉のちょっと黒い海よりエメラルドブルーの海が美しい、と小さい時から大人や他者に言われてるからそう思ってる節もあるんじゃないでしょうか。

少なくとも自然界に「美しい」という発想はありません。

物理や化学、生物の教科書に「美しい」なる言葉は一回も出てこないでしょ。

それは純粋な物質世界は「ただ存在している」だけで、世界に「美しさ」という意味を与えているのはわれわれ人間だからです。

主体性も自由意思も自立も「状態Aは状態Bより自由意志(主体性)がある」という相対的な意味では存在しえますが、完全なる主体性も自由意思も自立も存在しえません。

人間は社会的な動物ですから、自分が思ってるほど自分の判断は自律的でも主体的でもないと思うべきでしょう。

似たようなことを何度か言っていますが、この意見は人間や社会を理解する上で非常に大切な話ですから、スピーカーのように定期的に散布しますから。笑