読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

読書と国語について

作家の平野啓一郎さんが、「国語の成績が悪かった、どの選択肢も間違いにしか思えなかった。しかし、ちょっと出題者を意識するようになってから成績が上がってきた」と毎日新聞のインタビューで述べていました。

あの平野さんが「最初国語で苦戦した」というのは日本の国語学習の意味について考えるのに示唆的です。

私は昔から「国語」という科目が不思議で仕方ありませんでした。

もちろん小中学生の漢字の書き取りやことわざの習得などは理解できます。

しかし、わりと高度なレベルの国語の問題に関しては、かなりその存在に関して懐疑的です。

まず、小説をマークシートの問題にするとか意味不明ですし、空欄や傍線部をわざわざこしらえて設問を作るとか、は正直理解できません。

本来文章というのは、全体を把握するものですから。

私から言わせると、B5、3枚程度の文章を200字程度で要約させてある程度意見を述べるような問題にしないと、リテラシー能力が全く計測出来ません。

そもそも問題文の筆者が言っていることが「神様のように正しい」と仮定しないと国語の問題は解けません。

平野さんが苦戦したのも、頭がよすぎるが故に頭の悪い筆者の意見を受け入れることができなかったからでしょう。

本来正しい文章の読み方というのは、よく言われているように「筆者との対話」です。

しかし、日本式の国語学習だと、どうもその辺が完全に受け身になってしまうんですよね。

もちろん正しい意見を言うためには、「ある程度は」客観的な読解は不可欠です。

しかし、日本の国語学習は「筆者の主張を客観的に読み取る事」に過剰に重きが置かれているように思います。

より大切なのは、文章を読んで何を考えるかでしょう。

「論理的に反論する、論理的に意見を言う」ことのほうがずっと大切です。

平野さんの話はなかなか示唆的でした。