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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

完全なる翻訳機ができたら

最近凄まじい勢いで瞬間通訳機の開発が進んでいます。

もし完全なる瞬間通訳機ができてしまったら、語学産業はすべて潰れるのでしょうか?

ビジネスはともかく、外国人と恋愛をしたり外国で生活をするのに、さすがに「直接」コミュニケーションをとる必要性はなくならないのではないかと一瞬考えました。

つまり、やはり機械を介さずに直接やりとりをしたいという需要はなくならないと思ったのです。

しかし、一度反芻してみると「直接」という発想も少しドグマに毒されている気もします。

例えば、眼鏡やコンタクトレンズの人は「直接」世界を見ていないと言えなくもないですが、われわれはそのことを通常気にしません。

計算機を使っていても、「直接計算してない」とことさら気にしません。

車を使っていても「直接移動していない」とは通常考えません。(直接って「自分の足を使って」という意味です)

手書きではなくパソコンで文字を打っても、「直接書いてない」とは少なくても最近の常識では考えません。

私が思うに、社会の常識として特定の道具が認知されると、それはもはや道具ではなく、「体の一部」になるのですが、まだ特定の道具が社会に認知されないと、道具扱いされるのです。(つまり、直接なのかそうじゃないのかというのは極めて恣意的なのです。※これちょっと難しい表現かもしれませんから、理解できなくて気になる人はコメントしてください。)

このように考えると、自動通訳機が当たり前の世の中になると、自動通訳機でお互いコミュニケーションをとること自体、何ら不自然ではなくなのかもしれません。(つまり、それらは「道具」ではなくメガネのように「体の一部」になるということです。)

人間は現在の常識で物事を判断し、未来を予測します。

しかし、ひょっとしたら未来の常識では「外国語を学ぶ」などというのは、平安時代の人間が和歌に勤しんでいるのと同じ位時代遅れでばかげたことなのかもしれません。

まぁ、ラテン語を学ぶように「教養としての外国語」という領分はなくならないかもしれませんが。

ゲーテも言っていますが、「言語を一つしか知らないものは、言語を一つも知らないに等しい」わけですから。

しかし、実用レベルの外国語学習というのは、ひょっとしたら過去の遺物になるのかもしれません。

現在の常識で未来を考えてはいけません。