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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

教育ママは昭和の価値観に毒されている

私は事情があって(もったいぶった言い方すんな?)、小学生くらいの子供の母親達と親交があるのですが、特に渋谷区や港区あたりだと子供を有名私立中学に入れるために躍起になっています。

見栄やブランドのためというのは論外としても、わりと素朴に「学科の勉強ができる事はいいことだ」という価値観を疑っていないお母さんが多いように思います。

当たり前ですが「算数国語理科社会」的な学科の勉強ができたほうがいいというのは、極めて特殊な一つの価値観です。

人間は自分が生きてる時代の常識が全てだと思ってますが、少し歴史や地理を勉強すれば「時代によって必要な勉強は違う」という当たり前の事実に気づかされます。

平安時代には当意即妙に和歌を詠むことが「必要な能力」でしたから、「必要な勉強」とは和歌の勉強です。

平安時代に微分積分や運動方程式、分詞構文について鬼のように知識があっても全く意味がありません。

『散ればこそいとど桜はめでたけれ』とか『空寒み花にまがえて散る雪に少し春ある心地こそすれ』とかかっこいい和歌が読めることが貴族として出世する上で非常に大切だったわけです。

あの有名な中国の科挙では、とてつもない量の漢詩の暗記などをさせられるわけですが、科挙に受かる学力があっても今センター試験を受けたら0点です。

つまり、何が言いたいのかと言うと、必要な知識や能力というのは時代によって変わるわけで、「算数国語理科社会ができることが絶対的に価値がある」と考えるのは大きな間違いですし、科挙の合格者がセンター試験を受けても0点になる例を見ればわかるとおり、時代に全く不必要な知識や思考法を身に付けるためにいくら努力をしても全く無駄であるということです。

英語や中国語で取引をする商社マンがスワヒリ語やっても全く無意味というのと一緒です。

日本式の受動的な学習がいくらできたところで、21世紀には全く役に立たないでしょう。(一定程度の基礎学力は間違いなく必要ですけど)

それでも人は、今の常識が未来の常識だと思っています。

教育ママは、「「英数国理社」的な試験の点数が良いことに価値がある」という前提を疑えていません。

それは人間は本能的に変化を拒む動物だからです。

しかし、絶妙な変わり身を見せられる価値観を持ってる人間こそが今後は生き残れるように思います。

「メタレベル」で「知識とは何か」、「これからの時代に必要な学習とは何か」を考えられる人間こそが21世紀の勝者でしょう。

(ただし、小学校の算数や国語程度は向こう50年ぐらいは有効な気はしますけどね。)