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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

自由に生きるためには不自由である必要がある

よく「日本人には個性がない」とか「日本人は主張がない」という意見を言う人がいます。
 
田村耕太郎などの日本で一流になれなかったアイビーかぶれの人間がよくマウンティングで使うセリフです。
 
そしてそれは「画一的な日本の教育に原因がある」とよく結論付けられます。
 
しかし、私は日本人の倫理観の高さや「ルールや規範を守るまじめさ」は過小評価されてはいけないと思うのです。
 
掃除や連帯責任、上命下服といった一見前近代的なしきたりも、全面的に悪いことだとは思いません。
 
社会は規範があるから成り立っています。(実定法だけではなく、倫理的なものも含めて)
 
食事中にうんちの話をしない
電車の中でペニスの話をしない
むかついたからといっていきなり殴らない
etc
 
私もブログではふざけてるようですが、規範やルールというものに関して非常に真面目に守る極めて常識人です。
 
「個性的に生きる」ことと社会規範を守る事は時として相反することがあり、またそれは時として相互補完的でもあります。
 
「自由に生きる」、「自分らしく生きる」と言いますが、およそ人は社会で生きる以上完全なる自由というのは存在しません。
 
jsミルの「他人に危害を与えない限り自由」という基準(harm principle)が少し間違っているのは「時間軸」という観念がないからです。
 
喫煙スペースで喫煙をするなら一見「誰にも迷惑をかけていない」ようですが、仮にその人が喫煙が原因で入院して、その費用が少なからず税金によってまかなわれているとすれば、「迷惑」はかかっているのです。
 
たまに女性で「子供を生まない自由だってある!」という方がいますが、子供は欲しいけどできない場合は別として、「積極的に子供を作らない自由」が存在するとは思いません。
 
ミクロに見れば子供を作らないこと自体は誰にも迷惑をかけていないようですが、中長期的に見たら
そうとも言い切れません。
 
ゲーム理論じゃないですけど、みんながその判断をしたら社会はどうなるのでしょうか?
 
同様に「ニートだっていいじゃないか」と言う方もいらっしゃいますが、みんながニートになったら社会が回りません。
 
誰が税金を払うのでしょうか?
 
一定程度にニートが存在しえるのは、まともな勤労者が納税をしているからです。
 
「ニートになる自由」は原理的にはないのです。(現実には存在するわけですが)
 
一見「不自由」なことを言ってるようですが、個人の自由と社会規範の関係というのはおよそそういうものです。
 
私が上で言っているようなことは「前近代的」だと思われるかもしれませんが、私はそうは考えません。
 
人は一定程度「不自由」で社会規範を守るからこそ「自由」になれるからです。
 
自由を無制限に認めて「人を殺す自由」を容認してしまったら、社会の構成員全員が極めて「不自由」になります。(cfホッブズ『リバイアサン』)
 
「子供を産まない自由」をみんなが行使したら次世代の人間が社会に登場しません。
 
たしかに、日本人の規範意識の高さやまじめさが時として窮屈な場合もありますが、それらによって逆説的に多くの人が自由に生きられているという事は忘れてはいけないでしょう。