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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

林修の浪人否定論

昨日も取り上げた林先生ですが、私は基本的にこの方の言ってることには賛成のことが多いのですが、たまたま否定的な話についてです。

 
林は「浪人否定派」で、著書でことごとく浪人を否定しています。
 
しかし、いくら主に現役生向けの予備校で教えているとは言え、受験産業で働いてる人間が浪人を否定するというのは天に唾するようなものです。
 
そもそもなぜ我々の社会に予備校があるのか?
 
ちょっと考えたらわかるでしょう。
 
ほとんどの高校生は当たり前ですけど高校に通ってるわけです。
 
別に高校で勉強は教えてくれるのになぜ予備校に行くのか?
 
高校より予備校のほうがいい先生が多いからというのもありますが、本当のそもそも論を言えば、「知能が高いこと」、「(それに付随して)学歴が高いこと」が我々の社会(21世紀の日本)で過剰なまでに評価されてるからこそわざわざ高校生の親も予備校に高いお金を払うわけでしょう。
 
「試験には役に立たないけど本物のリベラルアーツ(教養)を教えてあげるよ」と言って同じ授業料を払う親がどれだけいるでしょうか?
 
同じように「情操教育として将来役に立つピアノ技術を教えてあげるよ」と言って同じ授業料を払う親がどれだけいるでしょうか?
 
知能や学歴が過剰なまでに評価され、過剰なまでにお金に結びつき、過剰なまでにお金を持ってることが意味を持つ(見方によっては)歪んだ社会だからこそ、予備校という商売は成り立っています。
 
「社会構造全体から見た予備校の位置づけ」が林先生はわかってるのでしょうか?
 
そこまで過剰に人生において所得や学歴が意味を持つ社会だからこそアホみたいにお金をかけて皆さん一流大学を目指すわけで、その延長線上に浪人もあるわけです。
 
(本当に学問がやりたくて一流大学を目指す人間なんてほぼいないわけですし、学問がやりたい位勉強が好きなら予備校なんていかなくても自分でやるでしょう。)
 
浪人を否定するというのは、そもそも日本の受験制度を否定してるのと同義です。
 
「浪人するほど価値がある一流大学の学位証」という大前提があるから受験産業は成り立ってるわけですから。
 
「浪人は否定」なのに「だけど現役ではできるだけがんばっていい大学に行ってください」というのはどうも論理的整合性がないと思います。
 
林の言ってること(浪人などする必要がない。現役で受かるところに行けばいい)を徹底するなら、「そもそも受験で頑張る必要なんてない」という結論になってしまいます。
 
しかし、受験で頑張る必要がないくらい我々の社会において知能や学歴が評価されていないのであれば、受験産業や予備校はすべて壊滅です。
 
あれ、やっぱり林の言ってることを徹底すると絶対に彼の仕事やその周辺を全て否定することになるんですよ。
 
こういう反論があるでしょう。
 
「受験で頑張る事は必要だけど、わざわざ無駄な1年を過ごす必要はないだろう」と。
 
しかし、林は「形式的な時間の話」をしすぎてます。
 
現役で怠けて浪人した人間も、高校生活をある程度犠牲にして現役で受かってる人間も、結局使ってる時間としてはあまり変わりませんから。
 
また、「浪人の受験勉強がムダなのに現役生の受験勉強がムダではない」 というのも不思議なロジックです。
 
大人から見たら18歳も19歳も一緒じゃあないですか。
 
浪人を否定しながら受験産業で働くというのは、どうやっても私には論理的整合性が見出せません。