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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

林修の学力低下論

あの林先生が、最近の高校生の学力レベルが下がっているというお話をコラムでしていました。(林先生は現代文担当です)

学力低下論は漱石の時代から言われていることで、なかなかその判断は難しいところです。

ただ、ペーパーテスト的な狭い意味での学力は明らかに下がっているでしょう。

林は、スマホとわかりやすい本が学力低下の一因だと推論しています。

たしかにネット上の文章やライトノベルなどは読みやすいですしそこまで頭に負荷がかかりません。

こういった浅い文章しか読まないと思考力や読解力が弱くなるのはたしかに事実でしょう。

しかし、発想を変えてみる必要もあるかもしません。

「そもそも難解な文章を読める必要があるのだろうか?」という問いかけも必要でしょう。

旧制高校の頃や40年前に比べ、情報入手経路の数も質も飛躍的に高まりました。

現代の若者はそもそも難しい文章を読むことにそこまで価値を見出していないのでしょう。

「哲学思想的な文章が読めることが良いことだ」というのも一つの価値観です。

旧制高校の時代の若者がデカルトやカントを読んでいたのも、それしか読むものがなかったからで、しかもピアプレッシャーで読まないといけないから読んでいただけです。

「お前まだカントの純粋理性批判も読んでないのか?」という旧制高校時代のマウンティングも「お前まだFacebook(ラインブログ)やってないのか?」という今の若者のマウンティングも一緒です。

前者の方が高尚そうに見えているだけで、別にたいしたことはありません。

それしかなかっただけです。

研究者等の一部の層以外の人間にとって、哲学的な文章が読めなくても何の問題もありませんから。

考えてみると、人類史において、人間は技術の進歩と引き換えに様々な能力を低下させてきました。

東京駅でホワイトカラーの仕事をしてる人間は、原始時代より明らかに足腰は弱くなってるでしょう。

彼らは同様に原始時代の人間より視力も低下してるでしょう。

体温調整機能も著しく低下してるでしょう。

しかし、それを補うべく、人類は車や飛行機などの移動手段や眼鏡やコンタクトレンズなどの視力矯正器具、冷暖房を発達させてきました。

日常的なツールは見方によっては、「体の一部」と定義できないこともありません。

例えば、私なんかは単純な計算なんて計算機にやらせればいいと思ってますけど、一部の数学の教師は「自分の手で計算できてこそ実力なんですよ」とおっしゃるでしょう。

しかし、そのロジックでいくなら「眼鏡なんか使わずに自分の目で見てこそ実力なんですよ」、「飛行機なんて使わずに自分で泳いで太平洋を渡ってこそ実力なんですよ」と言えなくもありません。(この場合「実力」ってなんだよ、と思いますが。笑)

道具を使えばいいところをあえて人間の五体を使う意味もないでしょう。

たしかに学生の読解力そのものは低下してるかもしれませんが、様々な電子機器の発達のおかげで入手できる情報の質や量は飛躍的に高まっているのですから、別にそれでもいいのかもしれません。(こういった電子機器を発明する上位0.3%の層は読解力がないと困るかもしれませんが)

ここで予想される反論として、「たしかに情報の量は増えたけれども、結局ネットの情報なんて玉石混交だから、情報リテラシーを身に付ける必要があるし、そのためにはやはり高い読解力や判断能力が必要だ」という考え方があります。

しかし、林がイメージしてるような「現代文の能力」と情報リテラシーや批判能力はちょっと違うものだと私は思っています。

受験現代文など所詮「受け身の能力」ですし、「筆者のアホな主張を批判的に検討する」必要はありません。(ホントは大切なのに、むしろそんなことやったら点数が下がります)

入試現代文の鉄則は、「主観を入れずに本文中にある情報だけを回答の根拠として考えること」ですが、果たしてそういった能力が21世紀にそこまで大切なのか?は問いただされるべきでしょう。

時代によって必要な能力は違いますし、身近なツールで解決するならばそもそも人間がその能力を磨く必要はないのですから。

入試現代文的な能力が落ちているから「今の学生の能力は低い」と判断するのは必ずしも賢くないかもしれません。

林先生どうでしょうか?