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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

弱い者を守ればいいのか

最近良く目にする駒崎さんですが、大変申し訳ないけど、非常に言ってることが浅いな、と感じます。

駒崎さんに限らず、渡辺ハコさんや森永卓郎さんあたりにも共通の「悪い思考の癖」なんですが、「弱者のため」という旗印を掲げたら何を言っても許されると思っているフシがあるんですよね。

「弱いものを守るため」ならどんな手を使っても構わない、ちょっと強い人間がどれだけ犠牲になっても構わない、という極端なリベラルというか。

日本人は特にルサンチマンに溢れたポピュリズム精神が旺盛ですから、基本的に「弱者のために」という言説はウケます。

(誤解を恐れずに言えば、社会のほとんどの人間は社会的弱者ですから、「多数決」的に考えたら当然の帰結です。)

しかし、結局社会問題というのは全て「バランス」なんですよ。

経済的弱者に人権や自由があるべきであるのと同じように、強者にも人権や自由があります。

「弱者のために」、「弱い立場の人を守るために」という思想は極めて大切です。

しかし、また一方で社会全体のバランスというのも大切です。

障害者や子供、女性のように相対的に立場が弱い人間で、「下から上には何を言っても許される」ととんでもない考えを持ってる人は少なくないように思います。

朝の満員電車で、明らかに女性専用車がスカスカでも男性が入れなかったりする状況は逆差別でしょう。

また、官僚や政治家などの社会的エリートにはどんなに罵声を浴びせても構わない、とすら考えている人間も散見されます。

「下から上には何を言っても構わない」、「弱い立場の人間を守るためには強い立場の人間がどれだけ苦しんでも構わない」という極端なリベラル的発想がまかり通ると、「弱者の強者化」とも言えるねじ曲がった状況が出現します。

「弱い立場の人間を守るため」なら何でも許されるというのは、トクヴィルが恐れていた「多数派の専制」そのものでしょう。

「弱者保護」に偏らず、社会全体を見据えた上での「最適解」を探ることが大切でしょう。