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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

『国語』という不思議な科目

新聞に載っているセンター試験の国語の問題を一読しましたが、考えてみると「国語」というのも不思議な科目です。

母国語で書いてあるのに解ける人は解けるし解けない人は解けない。

では「国語の問題が解けない人が日本語を使えないのか?」というとそういうわけでもありません。

小学生の漢字の学習が「国語」であるのはわかりますが、センター試験の国語が「国語」という科目で呼ばれているのはなかなか不思議です。

我々にとって国語とは日本語の事ですが、日本語ができてもどうやら国語の問題は必ずしもできないようです。

その原因の一つは、わざとらしく難しく書いてある文章が課題文としてあがっている点です。

「およそ近代化による〜中略〜ノスタルジーを助長し〜中略〜デカルト的世界観が〜中略〜抽象化とカタルシスの」といったかなり特殊な言葉遣いをしている文章が課題文になっていることが原因でしょう。

もはや普通の日本語とは言えない、学術的な用語を散りばめたかなり特殊な文章が「国語」なわけです。(まぁ建前としてはこれから大学に行って学問をする人間の素養をチェックするわけですから、あながち間違ってない気もしますけど、「国語」ではないですわな。)

さらに国語という科目が不思議なのは、筆者が何かを主張するために普通に書いた(まさか国語の問題として使われることなど想定していない)文章に( )や傍線部を細工し、しかも怪しげなダミー選択肢を混入させて、出題者の半ば勝手な見解で設問や点数が決まっているという点です。

本来文章というのはわかりやすく書いてあれば誰でもわかるわけです。

しかし日本のように「落とすための試験」ではそれでは困ります。

ですから、わざと読みにくい文章を持ってきて、わざと引っかかるような選択肢を作って、うまいこと平均点が50点くらいになるように細工をするわけです。

また、そもそも文章の読解には様々な「解釈」がありうるわけですから、普通に考えたら画一的な解答など不可能なはずです。(が、一応国語の問題には「答」があります。)

ある程度文章が読める人が10人いて10人が最大公約数的に考える「筆者の主張」はたしかに存在すると思いますが、ある程度の「ブレ」は必ず出てくるでしょう。

デカルトじゃないですが、そもそも文章は読み手と書き手の対話ですから、細かい部分まで筆者の主張に◯❌をつけることなど不可能なのです。

しかし、それをできる範囲で可能にするために(出来る限り問題に根拠がある)客観的な設問を大学入試センターや大学の教員も頑張って作ってるわけですが、そもそも「大前提」が間違ってるような気がしてなりません。

国語という不思議な科目について、でした。