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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

生産性、有用性という病

「人工知能の実用化に伴い、今の子供が成人する頃には、今ある仕事の50%はなくなっているであろう」と言われています。

「だから、人工知能に勝つために人間特有の能力を磨かないといけない」といった言説は最近腐るほど聞きますが、こういった言説は「ある前提」に毒されてると言えます。

それは「有用性ドグマ」です。

つまり「(主に経済的に)役に立つ人間が素晴らしい」というドグマです。

社会において仕事は不可欠ですが、私はあまり仕事中心の価値観というのは好きではありません。

なぜならば、これは資本主義の宿命かもしれませんが、「仕事ができる奴が価値が高い」という無意識の差別感情を醸成するからです。

日本のとりわけ東京にいると感じるのですが、「仕事ができるヤツが偉い」、「稼げるやつが偉い」、その前提として「学力が高いやつが偉い」という偏った価値観に毒されてる人がかなり多いように思います。

それはまさに「有用性」で人を判断してるからです。

「AIに勝たないと」、「AIができないことをできないようにならないと」というのは処世術としてはわかりますが、哲学思想レベルでは間違っています。

そもそも人間は人間で、AIはAIです。

「何ができるか」という有用性のみで考えているから、間違った比較をしてしまうのです。

人間はただ存在してることに価値があります。

例えば、たとえ社会には何も貢献できない障害者の子供でも、その子供の親からしてみるとかけがえのない価値があります。

「AIより仕事ができないから」価値がないわけがないでしょう。

それは障害者といった極端な例ではなくても、(経済的に役に立つ)特別な能力を持っていない「普通の人」であっても同様です。

仕事中心の(有用性が高い人間を重用する)価値観が私が間違ってると思うのは、残念ながらほとんどの人間は「普通の人」であり、別に特別な能力は持っていないからです。

特に東京のような生き馬の目を抜くような激しい社会で仕事で抜きん出れるような人は多くはいません。

では、大多数の「普通の人」に価値がないかといえばそんなことはないでしょう。

「経済的有用性」で言えばほとんどの人は「普通の人」であり、孫さんや三木谷さん、大谷選手みたいに「特別なバリュー」を提供できない人です。(私も)

しかし、そんな無能な私も私の家族や(数少ない)友人にとっては「オンリーワン」であり、「経済的有用性」には還元できません。

私以外の「普通の人」も同様です。

経済的有用性のみで物事を考えているからこそ、AIとの間違った比較をしてしまうのです。

人間は、家族や友人との関係性においてただ存在しているだけで至上の価値を持っているのですから、AIなど恐るるに足りないでしょう。(現実の生活はちょっと別の話ですけど、それはそれとしてまた話しましょう)