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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

センター試験前

もうあと数日でセンター試験らしいですね。

私も何度かこのブログでは教育や受験制度等について論じていますが、日本人にとって大切なのは受験や学歴について過大評価も過小評価もしないという事でしょう。

過小評価している人は「勉強ができるのと頭がいいのは違うからな!」といった形で無駄に勉強ができる事を貶めます。

普通の公立中学や公立高校にいると、必ずこのような反応を周りの生徒や下手したら教師ですらします。

「東大出てても使えない」
「スポーツができるやつは明るいが、勉強ができるやつは暗い」
「勉強と仕事は別物」
etc

その一方で、東大卒やハーバード卒などを「崇拝」してしまう人もかなりの程度います。

テレビ番組で京大芸人などが重用されてるという事は、それだけ学力などに劣等感を持っている人が多いという事でしょう。

当たり前ですが、過大評価も過小評価も間違いで、やはりその中間が答のように思います。

まず過小評価派にたいする反論として言いたいのは、「勉強ができる」ということは、それなりに処理能力や暗記能力、読解力などがあるという事ですから、勉強ができるという事は「頭の一部分が良い」とは間違いなく言えるわけです。

「勉強ができるから頭が良いわけではない」はちょっと極論ですね。

「頭の良さの全てではない」だけで、部分的に頭がいいのは間違いないでしょう。(そもそも人間の知性とは多面的ですから)

受験学力でEQや想像力等は測れないでしょうけど。

しかし、一方で過大評価派に対して言いたいのは、所詮学歴は18,9歳の時の話だということです。

18歳で才能が開花した人もいれば30歳で才能が開花した人もいますが、残念ながら学歴というレコードには30歳で才能が開花した人の凄さはどうやっても反映されません

勉強はできなくても仕事で才能が開花した人間の凄さも表現されません。

あくまで18歳段階での「点」での「受験学力」の能力にすぎない、ということです。

「点」での受験の能力にしかすぎないわけですが、それを50歳60歳になっても勲章として自慢したり礼賛したりするのもアホらしわけです。(まぁそう言いながら私もちょっと気持ちはわかる。笑)

また、これは過小評価派にも言ったのですが、「頭の良さの一部」にしか過ぎないにもかかわらず、「頭がいい人」と全知全能のような評価を高学歴の人に対して与えてしまう日本社会はかなりイビツだと思います。

(唯一例外ですが、研究者や物書き、予備校講師は別です。

彼らは完全に知性や学力で飯を食ってる人間ですから、彼らに関しては「学歴だけ」で完全に必要条件を満たすかいなかを私は判断します。)

まぁまとめると、受験勉強ができたというのは、多分に遺伝的な要素があるにせよ、「18歳の時に一定程度の努力をして暗記と最低限の論理操作ができた」ということを表していますから、「昔はある程度すごかったのね」とも言えますし、「でも所詮昔のことだよね」とも言えます。

全肯定も全否定も極端すぎますね。