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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

何が公正な試験なのか

日本や韓国のような一点刻みのペーパーテストというのは、表面的には極めて「公正」です。

例えば、アメリカでは家がお金持ちだと寄付金等ね有名大学に行けたりしますが、我々の感覚だとそれはとてつもなく不公正で不正義に感じます。

しかし、冷静に考えてみると、日本や韓国のような1点刻みのペーパーテストが本当に公正なのかは非常に疑問です。

例えば、日本の試験では、遺伝子レベルですごくIQが高い生徒と遺伝子レベルですごくIQが低い生徒も同じ土俵で勝負するわけです。

家庭環境がものすごく良い生徒と家庭環境がものすごく良くない生徒も同じ土俵で勝負するわけです。

それで、たまたま試験で敗れたからといって、「それはお前のせい。公正なの戦いで敗れたんだから」というのはどうにも不憫すぎます

アメリカのようにお金持ちの生徒がお金で大学に入れるのが「不公平」というのであれば、生まれ持った遺伝子レベルでIQ130の生徒がそれをフル活用して一流大学に入れるのも同じくらい「不公平」と言えなくもありません。

生まれてくる家も生まれ持った能力も同じ位「自分ではコントロールできない」ものだからです。

これに関して私も「こうすればいい」という代案はありません。

しかし、アメリカ型の試験に対する批判として「日本の試験は公正だから」という浅い意見を言う方に対する予防線としてちょっと言いたかったのです。

形式的な公平性はよくも悪くも一見公平ですから余計タチが悪いというのもあります。

イギリスのように家庭環境である程度人生が決まってるほうがむしろ楽かもしれません。

日本だと「公正な戦いに負けた俺が悪い」と自分を責めることになりますが、イギリスや前近代の社会のように「身分」ですべて決まっていれば、「負けたのは身分のせい」と自分を責める必要がないですからね。

結局現代の日本人、とりわけ東京の人間が不幸なのは、「可能性は誰にでもあるぞ、公正な戦いなんだから」と騙されて、実は全然平等ではないレースを強いられている点です。

「形式的公正性」ほど人を幸せにしない制度もないでしょう。