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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

賢い子供を育てたいバカな親

書店で幼児教育や子供の教育についてのコーナーに行き、「子供を賢く育てる」的な書籍が山のように多くあることに愕然としました。

 
全員が全員じゃないのは前提で、「一般論」的な話になりますが、都会の人間は子供を賢く育てることに興味がありますが、申し訳ありませんけれども根本的なところがわかっていないと思います。
 
特に父親より母親に多く見られる傾向ですが、「賢い」子供という類のお話になると、必ずアウトプットとしての「◯◯中」、「◯◯大」という「学歴」の話になります。
 
そもそも人間の賢さというのは極めて多面的なはずですが、浅はかな都会の人間は、わかりやすいアウトプットとして学校名というアイコンを神格化します。
 
私はこの手の風潮にかなり呆れています。
 
子供三人を東大理3に入れた母親がちょっと前に注目されていましたが、日本社会というか東京のスノビッシュな人間が「終わってる」と思うのは、「教育」について語るときに、「学歴」をほぼ唯一のアウトプット(メルクマール)として考えている点です。
 
現代社会がたまたま頭が良いと稼げる社会だから、確かに学歴が気になるのは分かりますし、私も時と場合によっては人の学歴は気にしますが、しかし、「教育」のアウトプットが「ほぼそれだけ」で語られるというのも非常に浅はかで薄気味わるいと私は思っています。
 
これは効率を最大化する現代社会の末路なのでしょうか。
 
礼儀正しさ、思いやり、運動能力の涵養、協調性etc
 
教育の目的は学力の涵養だけではないはずですが、子供を名門中学や名門大学に入れただけで、「教育の成功」と語られることに非常に違和感を感じます。
 
その歪んだ典型例が、東京大学や千葉大学医学部の例の事件でしょう。
 
「勉強さえできればいい」と甘やかされた人間の悲しい末路です。(まぁ、別に彼らは名門大学の学生だからこそ注目されてしまうという生存バイアスがあるわけですけど)
 
ちなみに私は、「別に勉強なんてできなくてもいい」などとは微塵も思っていません。
 
できるに越したことはないでしょう。
 
学歴もあるに越したことはありません。
 
しかし、 結果までのプロセスや部活動・ EQといった要素を捨象し、「アウトプットとしての学歴」を求め「すぎる」というのが、薄気味悪いのです。
 
その典型的な間違いが「附属小学校に入れてしまおう」という発想です。
 
「付属に入れてしまえば大学までついているから」という発想は私には「愚の骨頂」にしか思いません。
 
アウトプットとしての学歴と知性や学力が「同じ」だと勘違いしてるからこういった馬鹿なことをしてしまうのです。(※付属高を全否定したりしてる趣旨ではなく、あくまでも一般論ですよ)
 
例えば慶応に小学校から入れて、「慶應卒」のアイコンだけをゲットしたおバカちゃんと中高時代に必死に勉強して東京大学に1点差及ばず慶応に進学した人間は、同じ「慶應卒」ですが、まるで学力が違うでしょう。
 
1時間も話せば歴然とした差があるはずです。
 
小学校から付属に入れて生ぬるい勉強しかしていない人間と厳しい勉強をしてきた人間の「差」はわかる人にはわかります。
 
浅はかなママ友に自慢したいのであれば別に付属に入れてもいいんでしょうけど、一定以上の人間には全く通用しません。
 
ですから、アイコンとしての学歴など一定以上の「違いがわかる人」には全く無意味です。
 
まずは、発想を変えるべきです。
 
ある程度遺伝レベルで才能がある子供に関しては、「普通」に知的好奇心を刺激し、しかるべきトレーニングをすれば、「結果として」そこそこ良い学校には行けてしまうと私は思っているので、「結果だけ」を求めすぎるというのはかえって逆効果ですし、「学歴というアイコンだけあってもある程度以上の人間には通用しない」という当たり前の事実をここで指摘したいのです。
 
あまり目先の結果にとらわれることなく、読書習慣などをつけさせることも肝要でしょう。
 
日本人には、「最終学歴としての出身大学=その人間の知力」だと考えるバカな人間があまりに多いのですが、大学なんて所詮18の時の話です。
 
例えば50歳の人間であれば、そこから約30年のタイムラグがあるわけですから、学歴と知性が正比例のはずがありません。(ま、平均するとそこそこ出身大学と知性・教養の相関関係はあるわけですけど)
 
そのタイムラグの間に人を知的にするものと言えば読書しかありません。
 
読書習慣がないまま大学に入った人間は、まず間違いなく「18までの人」になります。
 
付属上がりの「愚」について指摘しましたが、実は東大だろう京大だろうが、所詮「18歳まで頑張った」というだけです。
 
そういった意味で、学歴など18の時の通過点にしか過ぎないわけです。
 
「だから学歴なんて無意味」とか、「極論」を言っているわけではありません。繰り返しますが、「平均的には」という条件を付けたら、学歴と知性は比例してますから、それなりに意味があるのは間違いありません。それを個人にあてはめて「神格視」、「絶対視」する風潮を嘆いているだけですから。
 
まとめると。
 
学力があれば学歴はある程度ついてきます。
 
しかし、学歴があっても学力があるとは限りません。
 
繰り返しますが、あまり目先の結果にとらわれることなく、淡々と読書したり勉強したりすればわかる人間には認められるでしょう。