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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

なぜ人は自由意思がないことを嫌がるのだろう

最近何度か人間の自由意志という極めて面白いテーマについて論じました。

自然科学的な見地から見ると、人間に自由意思がない事は99.9%確定しているので、そこはもはや前提としてますが、では「なぜ人は自由意思がないことを嫌がるのか?」が私の最近の興味です。

別に私は自分が自由意志によって動いていなくても構わないと思ってるのですが、世の中のほとんどの人は感情的にそれでは「嫌」なようです。

私は自由のさらに上位概念に「幸福」があると思っているので、胡蝶の夢のように、「知らぬが仏」で別に楽しかったら何でもいいです。

しかし、世の中のほとんどの方は、どうやら自由意志が実在していて欲しいようです。

「何者かに動かされている」のではなく、「自分で動いている」と思いたいんでしょう。

ただ、人間は究極のところ原子からできている物体ですし、人間の思考も結局のところ神経細胞やシナプスといったレベルで分析することができますから、一般人が通常考えてるような「自由意思」などありえないわけです。

結局人が自由意思を求めるのは、(これは完全に私の間違った推論かもしれませんが)、いわゆる西洋近代的な発想ゆえでしょう。

「作為」により自然を改変していく、という発想が西洋近代の根本にあります。

西欧近代的な発想に慣れ親しんでいる我々からすると、「自分たちが能動的に動いていない」というのはおそらく非常に気持ち悪いことなんでしょう。

しかし、東洋思想では「縁起」や「色即是空」といった発想もありますし、そもそも主観subjectも客観objectもありません。

仲正昌樹あたりも「主体性は幻想である」と言っていますが、完全なる主体性というのは私も幻想だと思っています。(ただし、「状態Aは状態Bより主体性がある」という相対的な程度の差というのはあると思いますけど)

このように冷静に考えていくと、別に自由意思がないことに気持ち悪さを感じる必要はありませんし、我々古来の東洋思想の発想からすると、本来自由も主体性もないわけですから、何も問題はないと思います。

以上