読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

遺伝と努力、その周辺

何回かに渡って、「人間の能力の8割から9割は遺伝ですでに決まっている」という「不都合な真実」について複数の本を引用しつつ述べてきました。

完全なる決定論に与するかどうかは別として、「遺伝が9割」という事実は、あらゆる商売人・教育関係者が認めたくない、ないしは大衆に知られたくない「不都合な真実」でしょう。

なぜならば、先進国のビジネスというのは、ボードリヤールではありませんけど、「いかに大衆の欲望を刺激して『何でも努力すれば手に入る』と思い込ませ、不要なものを買わせるか」に本質があるからです。

「これを買えばこんなに素敵な生活ができる。努力次第であなたにも可能です」という誘い文句があるからこそ、化粧会社も予備校も婚活業者も商売が成り立っているわけです。

学校教育も「努力すれば夢が叶う」という建前で回っていますから。

しかし、「努力ではなくほぼすべて遺伝」ならば、「努力すればあなたも夢が叶う」という建前が全て瓦解します。

さらに、遺伝に関する不都合な真実は、リベラルかリバタリアンかといった政治思想のレベルにも大きな影響があるでしょう。

「機会の平等」を主張する人間は、「人間は生まれながらにして平等で、努力によって結果が決まる。今の社会が不平等なのは親の所得等によって教育格差があるからだ。そこを是正すれば機会が平等になる」という『学問のすすめ』的な前提を受け入れています。

しかし、そもそもの大前提が間違ってるわけですから、あらゆる社会制度や社会システムに齟齬が生じるでしょう。

科学の進歩とはある意味恐ろしいものです。

もちろん科学は99.9%仮説ですから、暫定的な真理ですけど、「遺伝が9割」、「自由意思なんてない」ということが99.9%証明されてしまうと、「近代」の前提が全て崩壊してしまうからです。

法学も完全に近代的人間像が前提になっています。

原理的に、法学にポストモダンの発想はどうしても導入できません。

なぜならば、「完全なる自由意志を持ち、正しい判断力がある強い人間」が存在するという前提に立たないと法学は成り立たないからです。(刑法学あたりはその傾向が顕著です。痴漢した人間が「人間に自由意志はない。私にも自由意思がない。私の手がたまたま動いてお尻を触ってしまったわけだ」と言ってしまったら、刑法学は一切成り立ちません。)

こんな感じで、自然科学の発達とともに近代の前提がどんどん瓦解しているわけです。

「近代的諸価値」の影響を非常に強く我々も現代社会も受けていますから、これから先どのように社会をデザインしていくべきかはかなりの難問でしょう。