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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

自由や主体性について

昨日たまたまちょっと面白いコメントをいただいて、考えてみたことなんですが。

われわれは潜在的に「個性は素晴らしい」、「自由に生きるべきだ」、「主体性を持つべきだ」と思っています。

しかし、そもそも自由意思が存在するかどうかという話はさておき、自由に生きたり(これもまた定義によりますが)、主体性を持って生きたり、自分の価値観を持っている事が「善」である、という価値観自体がある種のドグマのような気もします。

私も「全然考えていない(ように見える)没個性的な港区女子」をマイナス的に捉えていますが、ほんとに深く考えていくと、そもそも没個性的であることが「よくない」というのもドグマですよね。

JSミルという人は「個性の開花が混じり合い社会が面白くなる」といった趣旨のことを言ってますが、これもなんともいえないところです。

「個」や「主体性」という発想自体が西欧近代特有の発想であって、それが必ずしも普遍性のある価値でもなんでもないわけです。

平安時代や鎌倉時代の日本に「個」や「主体性」という言葉はありませんでしたが、では平安時代や鎌倉時代の人間が不幸であったのか?

「主体性を持って自分なりの人生を生きる」ことなんてそもそも可能なのか?(神経細胞のレベルで人間の自由意思について考えていくと隘路に陥りますし、、、)
そして、果たしてよしんばそれが可能だとしてそれは幸福につながるのか?

ちょっと考えてみたいと思います。(なので、この投稿は問題提起であって結論はありません)