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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

速度制限と幸福について

幸福研究家兼怪しい宗教家のカトハヤです、こんにちは。

月末になるとネットのヘビーユーザーは「速度制限」というやつに悩まされることになります。

許容量をお金を払ってあげればいいだけの話ですが、わざわざドコモショップに行ったりする手間もめんどくさく、我輩は月末にはいつもイライラしているわけです。

しかし、速度制限が死ぬほどイライラするのは、「スムーズにつながる感覚」が頭にあるからなわけで、そもそもこんな苛立ちは大正時代の人間はなかったわけです。

これは人間の幸福を考える上で示唆的だな、と思いました。

人間の不幸感、不自由感というのは、絶対値ではなく「もしそれがなかったらこうだろう」という感覚が容易にイメージできるかどうかで決まります。

発展途上国の子供よりある意味東京でくすぶってる人間の方が不幸なのは、「もしこれが手に入ったら」という感覚をイメージしやすいからです。

同じように、スマホや携帯電話がなければ速度制限による欲求不満というのは存在しません。

エイズが治療可能な病気になったとして、その値段が1,000万円だとしましょう。

それでも1000万円が払えずに見殺しにするケースも出てくると思います。

その場合の遺族の悲しみというのは、エイズが「不治の病」であった時よりもはるかに大きいと思います。

「治せるはずなのに治せない」というのは「お手上げ状態」より不自由感を感じやすいのです。

結論として死んでしまうのは一緒なのにもかかわらず、どういうわけだか「明らかに無理」なほうが悲しみは少ないのです。

今の常識で、「太陽系から出る」ことができないことに不幸感を感じる人は皆無ですが、30年後にHISで「太陽系脱出ツアー」(390000円)がある程度の富裕層には可能になってくれば、太陽系脱出ツアーに参加した身近な友人にマウンティングされ、「うおーん、なんで俺は地球にしかいれないんだ、、」と不幸感を感じるでしょう。

人間は「できそうでできない」ことにもっとも不幸感を感じるのです。

速度制限に苛立ちつつ、携帯電話を持っていなかった小学生時代の気楽さをボヤっと振り返って思ったことです。