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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

謙譲表現

たまに思うのですが、日本語の謙譲表現というのはちょっと行き過ぎではないでしょうか。

先入観を入れずに外国語にしてみるとちょっと異常ですよね。

「愚息」
英訳したらmy stupid sonですよ。

自分の子供を「おろか」って逆に自尊心大丈夫?と思いますよね。

「つまらないものですが」
英訳したらThis is trivial,butですよ。
つまらないならよこすなよ、って話ですよ。

「拙著」
英訳したらmy poor booksですよ。
拙いなら書くなよって話ですよ。

とにかく自分を低く低く見せようとするのが日本人の美徳なんでしょうね。

しかし、行き過ぎた謙譲表現を礼賛するというのも「出る杭は打たれる」という「嫉妬根性」が根底にあるわけですから、あまり綺麗なものではありません。

結局日本人にとって謙譲表現というのは、「真の謙虚さ」ではなく、「一応そういうことにしておこう」という程度の形式的ものです。

「杭が打たれないように」という予防線ですよね。

思っていなくても、目上・年上の人間には「いやいや私なんてぇ」、「運がよかっただけですぅ」と半ば強制的に言わなきゃいけないというのもかえって気持ちが悪いです。

私なんて仕方なく謙譲表現を使いながら以下のように内心思っています。

「私の拙い文章読んでいただいて」
→本当に拙いと思ってたらわざわざ書かへんわ。

「寡聞にして知りません」
→そこそこ読書家の私が知らないんだから仕方ないでしょ。

「運良く合格して」
→落ちるはずないとずっと思ってたけどね。

「狭い家ですがどうぞ」
→ほんとに狭かったら人なんか呼ばへんよ。

「お世話になっております」
→別にお世話になってないけど。

「昨日は非常に有意義な時間を過ごすことができました」
→そこそこ楽しかったくらいかなぁ。

こんな事は誰でもわかってるのかも知れませんが、「一応言っておかなければならない」という謎のしきたりなわけですね。

あまりに行き過ぎた謙譲表現を美徳とする文化も、なんか嫉妬根性の裏返しのようであまり見ていて気分が良くありませんね。