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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

オレオレ詐欺と何が違うのか

ご存知の通り、私はなかなか悲しい社会観を持っています。

 

最近「詐欺」について考えてるんですけど、究極的に言うと、現在の先進国のビジネスってある意味かなりの程度が詐欺なんじゃないかと私は思っています。(刑法学的な厳密な意味の詐欺という意味ではないですよ、もちろん。「うまく騙してる」という程度のニュアンスです。)

 

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例えば英会話学校やジムで、たいして続かなそうな人を甘い言葉で騙して入会させたり。

 

いらない保険を勧めたり。

 

もう結婚の見込みがない人に、「ダイエットしてキレイになれば(この洋服を着ておしゃれをすれば)、お金持ちの男性と結婚できますよ」と言葉巧みに騙したり。(ファッション誌やエステ業界ね)

 

タワーマンションに住むことなどに圧倒的な価値があると見せかけて小金持ちのサラリーマンにローンを組ませたり。

 

受かりそうな生徒にはただで授業を受けさせ、明らかに受からない受験生を大量に集めてボッタクる東進ハイスクール。

 

あとちょっと論点がずれるかもしれませんが、銀行が問題がないのに消費者金融が特に非難される理由もよくわかりません。

 

イスラムから言わせると、金利をとってお金を貸してる時点で「同じ」です。

 

私はドストエフスキーの『罪と罰』に出てくるラスコーリニコフの言葉を思い出してしまいます。

 

「あいつが悪くなくて、俺が悪い理由ってなんだよ? やってることは同じじゃないか。」

 

要するに実質的に同じ位悪いことをしてるわけですが、表向きの体裁が違うだけで本人の罪悪感はだいぶ違うという話です。

 

投資や英会話学校などで合法的に人を騙しても文字通り法律的に罪ではないですが、それとオレオレ詐欺の違いは何なんでしょう?

 

林修も西きょうじも、東進ハイスクールの仕組みを知らないはずはありませんが、それでも自分が「騙してる本人」ではなく罪との因果関係が遠いが故に罪悪感を持たなくて済んでいるだけで、そんな大量に騙されてる生徒のおかげで良い生活ができてるという自覚はあるのでしょうか?

 

これは投資家などにも言えますけど。

 

それから我々は当たり前のように牛や豚を食べていますが、自分で動物の首をしめていないから罪悪感を感じずに済んでいます。(これはちょっと違う論点ですけど、「罪との因果関係と罪悪感」という意味ではちょっと似ているのであげました)

 

被害の発生との因果関係が遠くなっているから罪悪感を持たずに済んでいるだけです。

 

あくまで法律の形式的な要件に当てはめたら罪じゃないというだけではないでしょうか?

 

現代社会は、人を騙して余計な欲望を抱かせ、不要なものを買わせることによって経済が成り立っています。

 

「俺とあいつら何が違うんだよ」という言葉が心に響きます。

 

 

 

梅宮アンナのマウンティング

梅宮アンナが「港区なんて田舎者」という例のマウンティングをしていました。

 

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私は現在研究テーマの一環としてマウンティングを言語化・類型化していますが、名付けて

 

「1段上のステージからちょっと下のちやほやされている人間を見下して悦に入るマウンティング」

 

です。

 

ちなみに私は、幼少期を東京の世田谷で過ごしているので、梅宮アンナ的なマウンティングをしたくなる気持ちは非常によくわかります。

 

「どうせ今港区でいきがっていても育ちは所詮田舎者じゃないか」という醜い感情が湧いてくるわけです。

 

しかし、それを口に出してしまった瞬間にものすごくダサくなると私は思っています。

 

なぜならば頭の良い人間に深層心理を見抜かれるからです。

 

この手のマウンティングは特に女性同士で後をたちません。

 

「あれ、ケリーバックなんてまだ自慢してるの?」と「そんなステージ私は通過しちゃったよ。まだそんなステージで消耗してるの?」という醜い争いです。

 

「あれ、まだタワマンであなたたちマウンティングしてるの? 私は田園調布に戸建て買っちゃったけど」というのもこの類型ですね。

 

私なんぞはその滑稽さをわかった上で乗っかかってるわけですから、ある意味梅宮アンナの上を行くやらしさでしょうけど、1段上のステージ(にいる気持ちになって)からちょっと下を見下すマウンティングというのは枚挙に暇がありません。

 

人間は、心の底から見下してる対象に対して露骨に馬鹿にすることはないのです。

 

ホリエモンが「早慶なんてバカ」とマウンティングしていましたけど、「本当に馬鹿だと思っていない」からマウンティングしてるわけです。

 

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早慶がバカなら、青学も日大も東海大学も全部(^ ^)バカなはずですけど(少なくとも「ペーパーテストの点」という尺度では)、ホリエモンは「日大なんてバカ」とは言わないわけです。

 

なぜかと言えば、本当は慶応の毛並みの良さなどが羨ましかったり、社会人としては非常に早慶が学閥として強いからこそ、ある種「見下していい気分になるために見下してる」わけです。

 

心の底から見下している

 

のと

 

大差ないからこそあえて見下していい気分になるために見下している

 

のは心理状態として分けたほうがいいと思います。

 

ある意味露骨に見下してるというのは、その対象を認めている証拠です。

 

「コンビニの店員なんて終わってるわ」なんてほとんどの人は言いませんけど、それは全く軽蔑してないか、ものすごく軽蔑しているかのどちらかです。

 

馬鹿にするという事は、「本当はかなり脅威」だと思ってるわけです。

 

人間心理として僅差で勝っていて、脅威だからこそ見下して愉快なんです。

 

私の友人で関西圏から浪人してやっとこさ東大文ニに進学した奴がいますが、「京大なんてめちゃくちゃ簡単やで〜」と言い放っていましたが、これも結局ホリエモンと一緒で、「京大はかなり脅威」だと思っているから「言ってみたい」んですよね。

 

駿台の定評ある模試で東大文ニが偏差値65、京大経済が偏差値64、河合塾では同じ67.5ですが、「僅差」で「ほぼ一緒」だからこそ、逆説的に「めちゃくちゃ簡単」と言ってみたいわけです。(もちろん試験傾向や科目なども微妙に違うので完全に同じ土俵では比較できないわけですけど) 本当にあまりにも大差だったら見下して面白くないわけですから。

 

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彼は別に「慶応や明治めっちゃ簡単」という悪口は言わないのです。

 

彼からしてみたら馬鹿にしても面白くないほど明治や慶応は簡単なんでしょう。(深層心理はそういうことです)

 

梅宮アンナが港区を馬鹿にするのも全く同じ心理です。

 

そもそも梅宮アンナは渋谷区の松濤が日本一と言っていますが、私は幼少期に成城学園にも松濤の隣の上原にも住んでいましたけど、正直このレベルになると「もはや好みのレベル」であり、別にマウンティングをする意味がよくわかりません。(というマウンティングか。。笑)

 

それでも梅宮アンナが港区を馬鹿にしたいのは、「馬鹿にしてマウンティングをしていい気分になりたいから見下している」という深層心理があると思うのです。

 

梅宮アンナも埼玉県や群馬県を堂々とは馬鹿にしないわけで、港区が高評価だからこそ「馬鹿にしたい」わけです。

 

逆に板橋や埼玉の人は群馬や栃木を見下すわけです。

 

人間とは自分のステージよりわずかに下の人間がちやほやされているのを上から見下すと非常にいい気分になれるのです。

 

「わずかに下のちやほやされている人間を上のステージから見下していい気分のマウンティング」。

 

マウンティングの類型として覚えておきましょう。

 

そして私は、梅宮アンナ的なマウンティングをする人間に一言

 

「相手に深層心理を見抜かれる位の浅いマウンティングをしなさんなよ。『見下していい気分になるために見下している』って他人に深層心理が見抜かれてる時点でダサくないですか?」

 

というマウンティングをさせていただきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

教育問題には社会科学な視点が必要だ

私はたびたび教育問題について語っていますが、「自分の子供の育て方」といったレベルではなく「政策としての教育」というレベルでものを考える際、教育問題は社会科学的な色彩を帯びます。

 

なぜならば、「どういう教育システムがいいのか」という問は「国がどういう人間像を評価しているのか」、「国家が税金を使ってどういった人間を育てたいのか」という前提がないと成り立たないからです。

 

例えば、日本とアメリカですと、根本となる「学力観」が違います。

 

官僚的にある程度答が決められた問題をテキパキ解ける人間を「優秀な人間」として育てていき、国民の「平均レベル」を重視するのが日本の教育です。

 

逆に、知識はそこまで重視せずに、自分の頭で考え表現できる人間を「優秀な人間」として育てていき、平均レベルはイマイチでも一部の尖った人間が頭角をあらわせればよい、と考えるのがアメリカの教育です。

 

たしかに、識字率やお釣りの計算などの最低限の学力に関して日本は高いですが、日本はエリート層のパフォーマンスがイマイチです。

 

日本では、私立大学より国立大学が優秀と見なされるように「まぁまぁ何でもできる人間(オール5)」が評価されますが、「尖った人間」はあまり評価されません。

 

逆にアメリカは、国民の平均〜下位のレベルはイマイチですが、ぶっとんでる人材は果てしなく尖っています。

 

日本からザッカーバーグやジョブズが出るかと言えば、かなり難しいでしょう。

 

これはどちらかが正しいという問題ではなく、大げさに言えば社会観や人生観の違いです。

 

ほとんどの教育問題の議論が「滑って」いるのは、教育問題は社会観による、という当たり前のことがわかっていない点です。

 

「詰め込み式は時代遅れ」なのは事実ですが、何も考えずにアメリカ式の教育を礼賛するのは間違いです。

 

アメリカにはアメリカの歴史や社会観があり、日本には日本のそれらがありますから、アメリカ式にすれば全てうまくいくわけではありません。

 

繰り返しますが、教育問題は社会観や人間観に帰着します。

 

こういったレベルで考えることなく「いい教育」を論じるほど馬鹿げたことはないでしょう。

 

※youtubeで教養講座を収録しています。興味がある方はご覧になってください。
https://youtu.be/sLOR3idL9dE

出会ったときの力関係がすべて

さきほどの投稿と矛盾はしていませんが若干矛盾してるように感じることかもしませんが、あまり表面的なところで自分と相手どちらが上か下かなどを判断するのは馬鹿げているものの、人間には生物として「どちらが上か」を判断したい本性があるのもまた事実です。

 

年収とかスペックとかあまりにも一般的で表面的なネタで比較するのは馬鹿げていますが、例えばサッカーをやってる時に、「どちらがサッカーがうまいか」などはどうしても意識するものです。

 

そして最近思うのですが、「どちらが上か」という漠然とした意識は出会った時期とシチュエーションによってかなり変わります。

 

例えば高校生位の女の子にしても、「モデルのスクールで出会ってるのか」、「予備校で出会っているのか」によっておそらくカーストや力関係は違います。

 

昔サッカーチームが同じだったりした場合、極端な話どれだけ社会的地位等が逆転しても、サッカーが上手いか下手かがどうしても力関係に影響を与えます。

 

高校生位の時には「頭が良いかどうか」のマウンティング基準はほぼ数学や物理が得意かどうかに比例してきます。

 

私なんかはそれらが抜群に得意ではないので、最難関クラスの医学部に行った数学オリンピックメダリストの友人S本には「加藤はそこそこできるけど、抜群に賢くない。センスがない」というありがたくない評価をされて常に見下されていましたが、これも「基準」の問題で、今から考えると別の基準(哲学的な思考やビジネスセンスとか)なら私の方が彼より頭いいと思うんですけど、「出会ったときのカースト・イメージ」は強固に残ります。

 

今後私がベストセラー作家になっても、S本は「加藤は地頭は悪いけど努力したんだな」という評価しかしないでしょう。

 

それは向こうがそう思いたいというバイアスもあるわけですけど。

 

皆さんも経験ありませんか?

 

小学校の同窓会とかで、今は何者でもなくても小学校の時にいきがっていたガキ大将のやつにはやっぱり逆らえないですよ。笑

 

女の子であれば、「昔可愛くなかったデビューちゃん」はいくら可愛くなったところで、やはり「昔を知っている小中学校の仲間」にはどこまでいってもデビューちゃんでしかないわけです。

 

男性もそうでしょう。

 

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↑写真の左の人間が、高校デビューでいくら右のようにいきがったところで、「左の過去を知っている」小中学校時代の友達からしてみたら、怖くもなんともありません。

 

また、学生時代の部活の「先輩後輩関係」などは、生涯「上下関係」として持続します。

 

私も昔のサッカーチームの先輩には絶対服従ですが、こう言っては彼らには失礼ですけど、「いま、仕事で」出会っていたら向こうがこちらに頭を下げているかもしれません。

 

それでも「出会った時の力関係が全て」なのです。

 

今でも新橋で偶然出会い、「よぉ、加藤ぉ!!久しぶりじゃねぇかよ!」と体育会系のノリで言われたら「あ、先輩ぃ〜、お久しぶりですぅ」とペコペコ頭を下げるしかありません。

 

出会った時から一年間ぐらいでの評価が、ある意味その二者間での一生涯の評価です。

 

人間とはくだらないものです。。

 

最後に面白い動画を

 

https://youtu.be/S3I9P-Gy_ns

 

わかりやすいネタで人を羨んだりマウンティングしたりする人

ネットニュースなどで下世話なニュースを見ていると、いかに平均的な日本人が満たされていなく、他人のことが羨ましくて仕方ないのかがわかります。

 

よく他人を羨ましがる人がいますが、「羨ましがるネタ」というのはたいがい年収とか暮らしぶりとか夫のスペックとか勤務先とか学歴とか、「わかりやすい」ネタばかりです。

 

例えば自分より年収が高いと羨ましがってる人が、実はイボジだったり短小ペニスだったり義父母にいじめられていて死にそうだったり、自分よりずっと辛いこともあるかもしれませんが、そういう想像力はないようです。

 

あくまで「表層」に出てきた「現象」だけを見て「勝ち負けが判断しやすい」ネタだけを見て人を羨ましがったり嫉妬したりしてるわけです。

 

佐々木希が死ぬほど痛いイボ痔に悩まされていたり、イケメンの高収入な男性がダウン症の子供に悩まされていたり(※ダウン症を中傷する趣旨ではない)、といった「なかなか表には出てこない」話で悩んでることは十分にあるわけですが、そういったことがわからないというのは本当に想像力が乏しい人間だと思います。

 

ビルゲイツやザッカーバーグ、孫正義もワキガや短小、包茎などに悩まされていないと誰が断言できるでしょうか?

 

もし私が彼らのような富を持っていても、ワキガで短小で包茎で、ダウン症の子供がいて義父母に毎日電話でいびられたりしたら、全く幸せではないと断言できますが、ほとんどの人は表面的な現象にしか目がいかないようです。

 

それは結局、お金は「わかりやすい」ファクターだからです。

 

港区のママは、年収や学歴の話が大好きですが、およそ人の知性などには興味がないようです。

 

例えば人のブログを見て面白いとか、このブログからは知性を感じるとか、そういった「実質的な知性」よりは表面的な学歴に非常に執着していますが、それも結局お金と一緒で最終学歴はマウンティングをする上でこの上なくわかりやすいメルクマールだからです。

 

付属高から慶応に入って、ロクに学生時代も社会人になってからも本も読まずにコネなどで有名企業に就職した人間など、話せば一瞬で馬鹿だとわかる「吹けば吹っ飛ぶ」ような知性しかないわけですが、それでも「慶應義塾大学卒業」というブランドを港区ママは非常に重視します。

 

それは「会話や文章から知性を判断する」などといった定性的で主観的な(めんどくさい)営みより圧倒的に定量的でわかりやすいからです。

 

必死に勉強し、一般受験で青山学院大学に進学してそこから1,000冊本を読んで深く考えている人間のほうが「実質的な知的レベル」は上だと私は思いますが、港区ママは「実質的な知性」などには全く関心がなく、ただ単に出身大学というブランドにしか興味がありません。

 

これも「実質的な知性」などとややこしいことを言わずに「青山学院<慶応」という一般的な指標を用いるほうが楽ですからね。

 

お金、住所や住んでるマンション、暮らしぶり、勤務先、学歴などは「わかりやすい」がゆえにマウンティングに使われ羨望や嫉妬の対象になるわけですが、所詮そんなものは人間の一部にしか過ぎないという当たり前のことを忘れてはいけません。

 

ちなみに予想される反論として、「お前だって結構年収とかスペックの話をしてるじゃないか?」というそれがありますが、私の持論ですけど

 

世の中の一般論を議論したいとき

統計的なお話をしたいとき

自分のよく知らない人間を判断する時

1,000人から50人を選抜する時

よく知らない人間の本買うとき

 

などにやはり肩書や学歴といったスペック的なものは「それなり有用」です。

 

これは「確率論」問題ですから。

 

個別には年収が低くて幸せな人も逆の場合もあるでしょうけど、一般論では年収と幸福度が年収800万円位まではそれなりに比例するのは当たり前の話です。

 

学歴もそうです。

 

上に挙げたような「個別事例」に関しては、慶応<青山学院なこともありますが、「一般論」でその不等号が逆転する事は自明でしょう。

 

まとめるとこれらの指標は、「経済的な有用性」であり、それと「主観的な幸福度」は全く別の次元だということです。

 

ps私のブログをわざわざ読んでいただいているような人にスペック「だけ」で人を判断するようなバカな人は少ないはずですから、よくよく考えてみるとこの文章はあまり意味がない文章ですけど。笑

 

 

 

卑屈な人の心理について

たまに「私なんてえ」とやたらと卑屈というか謙虚な人がいます。

「いやいや、わたしなんて所詮○○ですからあ」

みたいな。

彼らは一見謙虚のようですが、私から言わせるとこういった人間こそ実は非常に自尊心と自己愛が強い困った人間だと思います。

そもそも自分をへりくだるのは、ただ単に自分を防御したいという「歪んだ自己愛」があるからです。

「偉大なる神に対する小さい人間」といった宗教的な謙虚さ以外のそれは基本的に全て見せかけです。

要は、自分を低く低く見せたほうが結局自分がうまく評価されるという計算があるからです。

また、よしんば本当に謙虚な気持ちを持っているように見えたとしても、心のどこかで「もっと高いところに行けたはずなのに低い所に甘んじている自分」を自覚しているからこその「私なんて〜」なのです。

ある意味本当に「私なんて〜」と思っている人はそんなことを口にすら出さないものです。

心の奥底で自信がある分野で、かつ理想レベルに届いていないからこそ、「私なんて〜」と低く見せて自分をかばっているのです。

 

自分から先手を打てば、相手から馬鹿にされる事はないわけですから。

 

「私なんてオバサンですから」、「私なんて所詮Fランですから」etc

 

先にこういう発言をして相手から馬鹿にされないように予防線を張っているのです。

 

こういった人間は、おそらく昔美人であったとか本当は自分が頭いいと思っている類の人間で、多少自信があった分野だからこそこういった屈折した発言につながるわけです。

 

これはやはり屈折した感情です


私は敬虔な宗教心以外に基づく「謙虚さ」などすべて見せかけだと思っています。

本当に人間の小ささを感じる瞬間は、宇宙や神といった本当に大きいものに触れた時だけだと私は思うからです。

私は卑屈な人は嫌いです。