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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

それは自然の摂理に反している?

遺伝子操作などの生命倫理の話で、「それは自然ではない」といった意見があります。

 

生物として男親と女親がいないのは不自然。

 

体外受精は不自然。

 

遺伝子操作は「偶然性」を排除しているから不自然。

 

etc

 

しかし、私はこういった意見に関してかなり懐疑的です。

 

まず、我々が何を自然と感じるかどうかというのは極めて恣意的です。

 

飛行機が空を飛ぶのも、コンタクトレンズが目に入っているのも、「それが当たり前じゃない時代の人」から見たらとてつもなく「不自然」です。

 

不妊治療が「自然」ならば、遺伝子操作でデザイナーベイビーを作ることはどうしても否定できません。

 

またもう一つの観点から、「自然」について論じたいのですが。

 

そもそも我々の生きている世界は全て自然ですし、我々のような強欲なホモサピエンスという動物が存在していることも自然界で起きてるという意味では「自然」ですし、そのホモサピエンスが遺伝子操作等でやりたい放題やっているのも自然界で起きている事という意味では「自然」です。

 

我々が遺伝子操作でめちゃくちゃになり地球環境を破壊し絶滅したとしても、それも地球という自然環境で起きているという意味で「自然」なことです。

 

たまに自然食品とか添加物という区別をする人もいますが、すべてを元素記号レベルに還元するとあらゆるものは自然食品です。

 

添加物も調味料も全て自然界に存在してるものだからです。

 

「人工的なもの」という言葉もなかなか不思議です。

 

天然芝も人工芝も広い意味ではすべて天然芝です。

 

人工芝も自然世界で生まれたものだからです。

 

「いや、人間が手を加えていないものが自然なんだよ」と言う人もいるかもしれませんが、「本当に人間が手を加えていない自然」なんてただの脅威でしかありません。

 

本当に人間が自然に手を加えないのであれば、芝なんてボーボーでスポーツに使えたもんじゃありませんし、防波堤も作らず津波が来ることも「それが手を加えてない自然の姿」として甘受しないといけませんし、だいたい牛肉もミルクも自然に任せていたらとても現在の地球の総人口を賄えものではありません。

 

我々自然界の動物が自然界でやってることなんですから、そもそもあらゆるものは「自然」のもので、「人工的」という言葉が意味してるものが私にはよくわかりません。

 

「自然の摂理に反している」という言説はなかなか摩訶不思議なのです。

 

 

線引き問題について

今、生命科学の本を読んでいるのですが、「ES細胞を破壊するのは殺人に等しい」というテーゼについて考えています。(ip細胞の登場でそもそもこの議論自体が下火ですが)

 

こういった生命倫理の線引き問題というのは極めて恣意的で難しいですよね。

 

受精卵が生命のスタートだとすると、男性のマスターベーションによる精子の無駄遣いは「アリ」なのでしょうか?

 

男性のマスターベーションはキリスト教の原理主義の方から見ると「犯罪的な行為」です。

 

そのように考えると、受精卵ではなくマスターベーションの段階でアウトな気もします。

 

その一方で、刑法学ではあくまで胎児が女性の陰部から出てきた瞬間が「生命のスタート」と定義しています。

 

本来「グラデーション」でしかない段階的な変化を辿るもののどこかに線を引かなければならないわけですが、それは極めて恣意的であり困難です。

 

特に結論らしい結論はない雑感ですが、ちょっと思ったことです。

ありがちで浅い批判

自分でもわかっていますが、私は時と場合によってはあえて矛盾する(ように見える)ことを言っています。

 

一例を挙げましょう。

 

ある投稿では「ある程度以上から先はお金持ちになっても仕方ない」、「社会的地位等でマウンティングする輩はうんこだ」などと言っています。

 

しかし、また別の投稿では「男性はお金や地位があれば少々顔が悪くてもモテる」と言っています。

 

こういった「一見齟齬がある二つの意見」を重箱の隅をつつくように、「いやあ、カトハヤさん矛盾してますなぁ、言ってることが。笑」と喜ぶような浅い方がFacebookをやってる時にいましたが、こういった方は「他人の言説を読解する」基本的な姿勢が分かっていないのです。

 

まずは、「徹底的に矛盾がないように解釈しよう」と考えてみるのです。

 

それでも矛盾していれば仕方ありませんが、大概の言説は前提条件などをいじると必ずしも矛盾してないことがほとんどです。

 

たとえば、私があげた例に関して言えば、「思考のレベルが違う」のです。

 

前者はあくまでもある種の理想論や思想レベルの話。

 

後者は「現実の社会通念や常識」を前提にした上での現実的なソリューションです。

 

また同じような例として、「日本の受験勉強はくだらない」とある投稿では私は言っていますが、別の投稿では「明治なり日大なりに行けばホワイトカラーとしての人生は常にビハインドスタートです。一生屈辱であり、コンプレックスまみれでしょう。マーチは人生が『待ち』になります。」と小馬鹿にするようなことを言っています。

 

こういうことを言って馬鹿にされたと感じた明治なり日大の方は感情的になって「ほらみろ。カトハヤはなんだかんだ低学歴を馬鹿にしてるんだ」とおそらく主張するでしょうが、これも上の例と同じで「前提」が違うわけです。

 

「日本の受験勉強はくだらない。AOみたいな読書の量や意欲を競うテストにしたほうがいい」と個人レベルで思っていたところで、社会はそのように動いていません。

 

世の中のほとんどの人は偏差値が高い人間が頭の良い人間だと思ってますから、その社会通念がある限りくだらないと思っても、現実問題として受験勉強をやらないという選択肢はないのです。(東京でホワイトカラーをやるんであれば、あと少しは人より上に行きたいと思ってるのであれば。別に地方でそこそこの暮らしがしたければ大学なんてどうだっていいと思いますけど。)

 

明治や日大に行って「受験勉強なんてくだらない」と言って誰が言うことを聞いてくれるでしょうか?

 

茂木が「受験勉強はくだらない、AOのほうがいい」と主張してみんなが聞いてくれるのは、彼が現行制度の勝ち組だからです。

 

「港区のタワマンくだらない」と船橋や大宮のアパートに住んでる人間が言ったところで誰が聞いてくれるでしょうか?

 

貧乏なブサメンが「東京の港区の女はお金が大好きでくだらない、本質が見えていない」と言ったところで「酸っぱいブドウでそんなこと言ってるんだろう」と鼻で笑われるのがオチです。

 

結局現実の社会の力学を無視して理想論を言っても虚しいだけです。

 

私が言ってることも「理想論を語る」場合と「現実的な対策」で違ってくるのは当たり前です。

 

なんでも脊髄反射で「矛盾」とは言わないことですね。

 

 

 

社会は絶妙バランスで成り立っている

先ほど「読書は大切なんだぜ」と言いながらさりげなく自分の読書量マウンティングをしたカトハヤですが、考えてみると、私がそこそこ本を読んでて優越感を感じられるのは、あまり世の中の人間が本を読まないからです。

 

斉藤孝も佐藤優も「今の日本人は全然本を読まない、もっとみんな本を読むべきだ」とあきれつつマウンティングをしていますが、もし日本人全員が彼らと同じ位読書をしてしまったら、彼らの相対的な優位性はなくなります。

 

考えてみると、「他人にできるようになって欲しい」というビジネスは世の中に山ほどありますが、周りの人間があまりにもできるようになってしまうとそれはそれで失業なわけですから大変です。

 

例えば英語にしても、英語の先生は皆「日本人の英語力をあげたい」などと真面目に語っていますが、日本人の英語力が平均して今のTOEIC満点ぐらいのレベルになったら、英語の先生は失業です。

 

みんな英語ができないから英語の先生の需要があるわけですから。

 

料理教室だって、「みんなに料理ができるようになってほしい」わけですが、生徒が自分と同じ位料理ができるようになってしまったら料理教室は廃業です。

 

私ももうちょっと日本人はが学びの楽しさに気づけるようなブログや動画を作りたいと思っていますが、そうは言っても自分の優位性が失われるほどみんなが読書家になってしまっても困るわけです。笑

 

今よりはちょっと読書してもらって、でも自分の優位性はキープしたいという極めて虫の良い考えを持っています。

 

そしてそれは斎藤孝のような「読書や教養が大切なんだ」と説く人間にもあてはまります。

 

明治大学の学生が斉藤孝と同じようなレベルになってしまったら斎藤孝の相対的な優位性はゼロになるわけですから、そうなったら彼の存在意義はゼロです。(斎藤孝は明治大学の教員です)

 

結局、社会の不都合な真実として、「相対評価の領域」はできない人がいてくれるおかげでできる人が浮き彫りになるわけですから、ちょっと嫌な言い方をすれば、「人にものを教えるビジネス」は人の不幸で飯を食っていると言えなくもないわけです。

 

ちょっと違う例かもしれませんが、会社の経営者も「優秀な従業員が欲しい」と思ってはいるものの、従業員が自分と同じレベルで優秀であれば自分の相対的な優位性はなくなるわけですから実は困るわけです。

 

従業員はあくまで「そこそこ優秀だけど自分より仕事ができない方が良い」のです。

 

彼らが自分と同じレベルになってしまえば彼らは自分で独立したほうが儲かるわけですからね。

 

これが社会の不都合な真実です。

 

社会は絶妙なバランスで成り立っています。

 

 

うまい棒

ちょっといつもと違ったふざけた投稿ですが。

 

「うまい棒」というお菓子があります。

 

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皆様も小学生の時に一度はお世話になったのではないでしょうか?

 

しかし、このお菓子。

 

大人になって考えてみると常軌を逸するエッチなネーミングです。

 

うまい棒、、

 

イヤーン、エッチ。

 

私は可愛い女の子がうまい棒を食べてるだけで、下半身がムクムクと頭角を現します。

 

うまい棒ですよ?

 

冷静に考えてみると、よくこんなネーミングが役所を通過したものです。

 

私の中でアワビと松茸の次にいやらしい食べ物は「うまい棒」です。

 

アワビもなかなかですが、、、

 

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読書とAO入試

私のブログを読んで頂いてる皆さんなら分かると思いますが、私は勉強や学ぶことが大好きです。

 

サッカーとオナニーと食べ歩きと旅行の次ぐらいに好きです。(ってそんなに優先順位高くないか。笑)

 

しかし、私がすごい残念なのは世の中には子供も大人も勉強や本が嫌いな人が多いことです。

 

もちろん理由は複合的ですが、彼らが学ぶことが嫌いな最大の理由は、非常につまらない日本の学校教育にあります。

 

私は日本の学校教育に関して言うと、小学校・中学校に関しては概ね賛成ですが、日本の高等学校の勉強に関してはかなり疑問を持っています。(賛成、反対って二者択一的に単純化できるものでもないのですが、一応)

 

日本の高校の勉強は、無駄に難しいし細かいと私は思います。

 

(まぁ、そもそも中学校までが義務教育で、高校は文字通り「高等」学校なわけですから、ある程度仕方ないと思いますけど)

 

私は日本の高等学校の勉強って、そもそも3年でやるには無理があると思うんです。

 

試しに新橋や東京駅を歩いている有名大学の出身者にちょっと問題を解かせてみて下さい。

 

このベクトルの内積の問題解けますか?

 

このモル計算の問題わかります?

 

中国の王朝全部言えますか?

 

ロックとルソーの思想の違い、だいたいわかりますか?

 

おそらく「ボロボロ」ではないでしょうか。

 

教科書やセンター試験のレベルでも、まともに覚えている人はほとんどいないと思います。

 

結局何が言いたいのかと言うと、日本の高等学校の教科書レベルの知識が長期記憶になってマスターできている人間はほぼいないということです。

 

みなさん試験のために一生懸命詰め込んで後はほとんど忘れてしまっている。

 

そして詰め込んで嫌になるほど勉強したがゆえに大人になっても学び直そうと思わない。

 

結局試験の突破のために苦行のように勉強して10年後には何も残ってないわけですから、日本の教育は「壮大な無駄」をやっているとしか私には思えません。(唯一、「ブランド大学を出た」という事実を手に入れるための意味だけはありますけど)

 

こんなどうせ後に残らない勉強をする位なら、もっと本を読ませたり、暗記の量を減らして本当に大切なことだけに絞って覚えさせたり、もっとマシな勉強をさせるべきでしょう。

 

この意見に対して予想される反論として、「いや、別に忘れたっていいんです。必死に覚えたり解いた経験に意味があるわけですから」という意見がありますが、それは後に述べるように、比較対象を間違っています。

 

「やらないよりやったほうがいい」のと「最も実のある時間の使い方」は全く別の概念です。

 

日本人の受験の成功者は、皆さん「自分の成功体験を正当化したいバイアス」が非常に強いので、なぜか受験勉強の意義を無駄に説きます。

 

確かに私も受験勉強をして良かったと半分ぐらい思ってますし、それが基礎体力となっているところはありますけど、よくよく考えてみるとそれって「比較対象」がちょっと違うんですよね。(やはり私もバイアスにある程度浸っていますから。)

 

日本式のくだらない受験勉強をやるか、まるで勉強しないか。

 

この二者択一であれば当然前者の方が良いでしょう。

 

しかし、私がもし高校生に戻れるとして

本を1000冊読んでそれについて議論をしたりエッセイを書いたりするか

 

チャート式や詳説世界史、『難問題の系統』を死ぬほど繰り返すという例のくだらない作業をやるか

 

と言われたら前者のような勉強をしたいです。

 

そして、

ただなんとなく遊んでいるか

 

チャート式や『難問題の系統』あたりをひたすら繰り返すくだらない勉強をするか

 

の二択なら後者をやりたいです。

 

要は、意味なく遊んでる位なら受験勉強をやったほうがいいですけど、やはり日本の受験勉強は「一番の学びの方法」だとは思いません。(ですからロクに本も読まずに明治に行くよりは、同じく本も読まずに一橋大学に行く方が相対的にマシですよそりゃ、ええ)

 

日本の受験教育の成功者は皆さん「やらないよりやったほうがいい」勉強を「すばらしい勉強、体験」だと誤解して浪人時代などを美化していますが、比較対象が間違っています。(このロジック「ちきりん」がよく使いますね。「やらないよりやったほうがいい」ことを皆さん「やったほうがいい」と勘違いしてるわけです。しかし、時間は有限ですから、「同じ時間を使って何ができたか」を考えるべきでしょう)

 

最近、東大や京大でAO入試が始まりましたが、もし私が高校生の時にこういった試験があったら間違いなくこちらのルートを目指していたでしょう。

 

本を読んだり興味を持って探求したプロセスがそのまま試験で問われるわけですから、これほど有意義な時間の使い方もありません。

 

しかし、「学力がアイデンティティー」の一流大卒の方はこういったAO入試に非常に批判的です。

 

何とかして「学力が至上の価値」であって欲しいというバイアスがものすごく強いわけです。

 

特に社会で活躍できなくたいした読書量もない東大卒あたりからすると、東大卒という肩書きは自分を正当化する唯一の手段なわけですから。

 

これは大きく言えば早稲田や慶応などの一流大学出身者にも言えるでしょう。

 

しかし、自分のバイアスを抜きにして冷静に考えてみたら現行制度は非常に歪んでいます。

 

「瞬間風速」で18歳の時にひたすら詰め込んで、「後は野となれ山となれ」というのも非常に教育制度として不適切です。

 

もっと学ぶことが好きな子供が増えるような教育をしてほしいものです。

 

psまぁ、そもそも人工知能の実用化に伴い、頭が良いことや学ぶことの価値がどんどん減じていく気はしますから、ここで書いている話も30年後には時代遅れかもしれませんけど。。。

 

※youtubeで教養講座を収録しています。興味がある方はご覧になってください。
https://youtu.be/sLOR3idL9dE

 

 

 

 

 

 

 

 

有用性という病について

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 たまたま最近同時に読んでる2冊の本が似たようなことを言っていて非常に共感したのですが、我々現代人はともすると人生の諸問題を全て「有用性」で判断しがちです。

 

要は「役に立つか、役に立たないか」ですよね。

 

しかし、有用性でモノを判断してる限り、AI時代に「生きる意味」を実感するのは難しいと思います。

 

なぜならば、これからあらゆる仕事は人工知能に取って代わられ、「あいつは役に立つか立たないか」というメルクマールで判断するとほとんどの人間は役に立たなくなるからです。

 

私もかなり強烈にこのドグマに浸っていると思いますが、現代人のとりわけ都会人は、「仕事」で他人の価値を測ったり、人間としての卓越性を判断している節があります。

 

たしかに私も学生時代に「予備校講師なんか仕事にしたら馬鹿にされる」などと薄すらと思っていましたが、まさにこれは「職業=その人の価値」というドグマに毒されていたからでしょう。

 

このドグマはかなり強烈です。

 

どれだけキレイ事を言ってる人も「あの人は超有名な外科医なんだよ」というのと「あの人はスーパーのレジ打ちなんだよ」というのを全く同じように捉える人はいないでしょう。

 

やはり無意識のレベルで前者を敬い、後者を少なからず軽蔑してるでしょう。(後者は軽蔑とまで言わないでしょうけど、少なくとも前者と後者を同じレベルでリスペクトしてる仙人は絶対にないと言い切れる自信があります。)

 

「あいつはAB型なんだよ」と「あいつはO型なんだよ」と聞いてもほとんど何も差異を感じませんが、それと同じレベルで人の職業を聞いて何も思わない人はほとんどいないと思います。(これを社会学で職業威信と言います)

 

それくらいわれわれは「有用性ドグマ」に毒されていると思います。

 

要は、

 

どれだけ生産力があるか。

 

どれだけ社会に貢献するか。

 

我々の社会全体がこういったドグマに毒されているので、「仕事をして社会に貢献したい」という人に対して否定的な考えを持つ人はまずいないでしょうし、逆に「仕事なんか最低限にして適当に遊びたい」という価値観を正面から認める人もほとんどいないでしょう。

 

近代以降の人間は例外なく「生産主義」、「有用性病」に毒されています。

 

これは日本に限らず現代世界覆っていると言っても良いでしょう。

 

英語でoccupationという単語がありますが、要するに「1日の大半を占めているもの」が仕事だということです。

 

紹介した本(『仕事なんて生きがいにするな』)では、あの有名なマックスウェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』なども引用しつつ「仕事が生き甲斐病」、「有用性病」の淵源や歴史について詳しく論じています。

 

「仕事が生きがい」、「良い仕事を得るために一生懸命勉強する」。

 

こういった価値観を正面から疑う人はほとんどいませんが、賢者になるためには本当の根源のところから考える必要があるでしょう。

 

有用性ドグマから完全にフリーになる事はできないと思いますが、思想レベルでは疑うべきでしょう。

 

ps 『人工知能〜』のあとがきは立ち読みでもいいですから(出版社の方申し訳ない)ちょっと読んでみて下さい。私がパラフレーズして似たようなことを言ってしまってますが、非常に良いことを言ってますよ。