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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

定量化のその先に

ビジネスでよく「定性的ではなく定量的に考えよ」というアドバイスを耳にします。

定量的とは文字通り数量化です。

「速い車」ではなく「時速120キロの車」
「身長が高い」ではなく「身長180センチ以上」
「頭の回転が速い」ではなく「IQ112以上」

etc

私も何かものを考えるときにある程度定量化するように心がけていますし、できることなら定性的ではなく定量的に考えるべきでしょう。

議論が錯綜してる時はとりわけ定性的ではなく定量的に考えるべきです。

しかし、人生の本当に大切な事は何一つ定量化できません。

「人生の意味とは何か」
「いかに生きるべきか」
「どうすれば好きな人と長く一緒にいれるか」
etc

こういった「人生の本当に大切な事」は何一つ定量化に馴染みません。

自分の頭を使って考え抜くほかないのです。

数字も論理も何の役にも立ちません。

昔、数学の授業を受けていた時に教師が、「人類は数学以外に完全に厳密に議論できる言語を持っていません」と高らかに語っていました。

もちろん彼は数学の素晴らしさを説きたいだけですから罪はないのですが、はっきり言ってめちゃくちゃ浅いですね。

現実や人間の複雑な世界から、定量化できる部分『だけ』を抽出したのが物理学や数学ですから、そもそも成り立ちからして厳密で正確なのは最初から分かり切ってる話です。

繰り返しますが、人生のほとんどの問題は定量化できますが、人生の本当に大切な事は何一つ定量化できません。

ですから、標語的に言えば、

まずは仕事でも日常でもあらゆることを定量化せよ。そして、その先の定量化できない世界について考え始めた時に、本当の哲学や思考は始まる。

このように私は考えています。

ここ数回の記述の補足について

ここ数日間、一定以上から先は年収を増やしてもそこまで幸福度は上がらないし、あくせく働いて年収を増やしても仕方ない、といった趣旨のことを述べてきましたが、自己批判というかあえて自分の言ってることに反論します。

 

まず、こういう言い方も嫌な言い方ですが、どうしても私の場合は自分の所属するコミュニティの人間の年収や社会的地位が高く、年収500万円以下の友人などはほとんどいませんから、「500万円を2000万円に、って言うけど、年収500万円って前提おかしくね?」と反論する人もいるでしょう。

 

これは全くその通りで、日本人のほとんどは「年収300万円で暇もない」ケースが大半でしょうから、私の言ってることが当てはまる人は実は数としてはそこまでいないのかもしれません。

 

これは認めざるを得ないでしょう。

 

次に、私の場合はそもそも仕事が面白くないという前提でお話を進めていますから、「あくせく働いて年収2000万円よりはそこまで頑張らないで年収500万円でいいのでは?」と申し上げましたけど、もちろん仕事が純粋に楽しいのであればどんどん働いてどんどん年収を増やすのも1つの案かもしれません。

 

ただ、私はこのブログでも何度か言ってますが、仕事が純粋に楽しいという事は普通にありえないことだと思っています。

 

「仕事が楽しい」と言っている人は、社会的にそれなりに恵まれていてステータスも年収もあるような人ですが、彼らは結局純粋に仕事が楽しいわけではなく、「仕事から付随する何か」が楽しいわけです。

 

例えば合コンで三菱商事だと名乗ったらモテるじゃないですか。

 

飲み屋でもチヤホヤされるじゃないですか。

 

だから仕事そのもの自体はよく良く考えてみると大した事じゃなくても自分の中ではものすごく仕事が楽しく感じられる訳です。

 

三菱商事や電通の「仕事本体」はそのままで、年収はカフェの店員並になり、そして社会的な評価もコンビニの店員やカフェの店員並になると仮定してみて下さい。

 

絶対みんな「仕事が楽しい」なんて言うわけないですよ。

 

逆にヤマトの引っ越し屋さんの仕事が電通や三菱商事位の社会的な地位があり、そして年収1000万円で、合コンでも女の子に「わあ、あのヤマトなんだー」と毎晩ちやほやされてみてくださいよ。

 

「いやさ、俺たちって引っ越しっていう人生の重大事に関わっているすごく大切な仕事をやってると思うんだよね。こんなにやりがいのある仕事はないよ」とうぬぼれるかもしれません。笑

 

仕事の楽しさなんてかなりの程度仕事そのもの以外の要素に左右されますから。

 

林修が「予備校の仕事なんてつまらない」と自虐的に語っていますけど、これも結局予備校講師の地位が低いからであって、やっている仕事の中身が、広告を作ったり、石油を売り買いするのより圧倒的にやりがいがないはずはないんです。

 

まぁ私から言わせるとどっちも同じ位つまんないですけど。

 

基本的に、プロ野球選手や歌手、大学の研究者といった「仮に10億円明日振り込まれて、それ以降お金をもらわなくてもやりたい仕事」以外の仕事の「楽しい」なんて所詮「お金がもらえる仕事の中では楽しい方だ」という域は超えないと思っています。

 

子供と遊んだりサッカーをしたりしている楽しさと比べて仕事が楽しいはずがありません。

 

あくまで、道路工事の仕事をする位ならきれいなオフィスで広告を作ったり会計士をやったりする方がマシかなという程度の意味で「楽しい」わけです。

 

ちょっと話が飛躍しましたが、結局まとめていくと、

 

・私が話している前提である「年収500万円」ですら日本人の平均からはかけ離れており、私が言っていることが当てはまるのはごくごく1部の人にしか過ぎないということ。(これをどうするべきかは政治の話でしょう)

 

・もし仕事がそこそこ楽しければ労働時間が長くてもいいかもしれない。

 

・でも本当に仕事が楽しいなんてありえるのかな?という疑問。

 

このようになりますね。

 

お金を使ってる人、お金に使われている人

そこそこ所得が高い人が、「お金じゃないよ」みたいなことを言うと必ず「お金があるからそんなことが言えるんだ」と噛み付く人がいます。

 

これは半分正しく半分間違っています。

 

私はお金持ちも2種類のタイプがいると思っています。

 

端的に言えば、頭の良い学のある金持ちと頭が悪い学のない金持ちです。

 

これは私の感覚ですが、

 

お金持ちでも

 

ある程度所得が高い人間でも、ある程度の知性と教養があり、常識や自分なりの価値観があった上でお金を持っている人

 

 

知性や教養もなくポルシェやタワーマンションといった刹那的な喜びや見栄しかない人

 

は、やはり全然違うと思います。

 

前者のタイプは、自分なりに物差しを持った上でお金を使っています。

 

しかし、後者のタイプは結局自分ではお金を使ってるつもりになってますが実は商業主義に翻弄されているだけでお金に使われているのです。

 

お金があったからといって飛躍的に幸福度が高まるわけではありませんが、それでもとてつもない努力をしないでお金が手に入るならお金があるに越した事はありません。

 

しかし、最終的にそのお金をうまく使えるかどうか、そしてそれが人生の幸福度を上げることに寄与しているかどうか、は最終的には知性や教養にかかってきます。

 

学歴がないのはともかく学がないのは絶対的にまずい。

 

本を読んだり勉強する習慣もなく、ただただお金を浪費して幸福感を得るような生活をしている金持ちは本当にピエロだと思います。

 

特に女性でブランド物のバックを買ったり配偶者がお金持ちであることがアイデンティティーのような人間がいますが、自分が良ければいいものの、かなり虚しい人生だと私は思います。

 

お金があるのに越した事はないですけど、そんなに頑張って手に入れるものではないですし、最終的に人生の質を決めるのは知性と教養だと私は信じています。

 

知性と教養があり、社会を相対化して見れれば、お金があろうがなかろうが宇宙や地球という規模で考えてみるとたかが知れてるということに気づくでしょう。

 

 

 

 

可哀想な東京カレンダーの世界

※ここ直近の3つ、4つの投稿はシリーズ物のようにある程度中身的につながっていますので、時間がある人は前後の投稿も読んでください。

 

「年収500万円〜700万円以上から先は年収と幸福度なんて比例しないのだから、がんばって収入を増やすのは馬鹿げている」

 

と何度か言ったわけですけど、東京の港区や渋谷区にいる人はどうしても「お金で買える幸福」というドグマから抜け出せないように見えます。

 

商業主義に完全に翻弄されているわけです。

 

しかし、ひょっとしたらほとんどの人はうすうす気づいているのかもしれませんが、なかなかその価値観を捨て去ることができません。

 

東京の拝金主義は麻薬のようなものです。

 

わかっていてもやめられない。

 

麻薬やカッパエビセンのような中毒性があります。

 

これは結局のところ、「金を持って金を使っている人間が偉い」という価値観を都会が自然と醸成してるからでしょう。

 

東京カレンダーのコラムがそれを体現しています。

 

私は半分東京育ちですから、渋谷や世田谷の世界というのはある種デフォルトで、水や空気のようなものですが、地方出身者の人から見るとやはり東京のきらびやかな世界というのはなかなか魅力的なようです。

 

地方出身者で東京に来た人間も、おそらく地元にいたときにはそこまで拝金主義やブランド主義ではなかったはずです。

 

それが東京に出てくることに完全に汚染されてしまった。

 

これが実情でしょう。

 

(まぁ地方の中でもわりとブランド志向のやつが東京に出たがる傾向はあるわけですけど)

 

しかし、一度拝金主義的な世界を知ってしまうともう地方へは戻れない。

 

これが知ることの恐怖です。

 

よほど哲学や政治学といった学問的な世界に精通し、東京の商業主義を相対化出来るような目がない限り、どうしても地方の価値観には戻れません。

 

スマホがない時代にはスマホがなくても何も問題がなかったわけですが、スマホがデフォルトの我々から見ると、もはやスマホがない世界には戻れないように。

 

そして、東京の商業主義の内部での飽くなきマウンティング合戦に翻弄されるわけです。

 

地方から東京に出てきた人間は心のどこかで地元の人間を見下し「自分は1段上のステージに来た」と勘違いしてると思いますが、東京に来たことによりどんどん不幸になってる人が後を絶たないのは資本主義の宿命なのでしょう。

 

ハッキリ言いますが、金とか学歴とか美貌とか圧倒的なリソースがあって圧倒的に勝てる自信がない人間以外は東京なんて何も面白くないですし、ただただきらびやかな世界にいるものの何一つ自分では手に入れられず恵まれている人間を指をくわえて見ているだけになりますから、ただ単に憧れで東京に来る事は絶対にお勧めしません。

 

嫌なこと言いますけど、スポーツや芸術といった明らかなストロングポイントがない限り、高校生も東京になんて来ないで地元の大学に進学して地元の価値観でワイワイやってる方が「井の中の蛙」で意外と楽しいものです。

 

(地方から明治とか法政に行く位なら、地元の南山(名古屋)、金沢大(石川)、岡山大とかに進学して地元の県庁でもいたほうが100倍主観的には幸せですから。余計なノイズが耳に入ってこないので。明治法政にいたら東大一橋早慶など「上」に人がいすぎますし、明治法政から行ける企業なんて知れてますし、「東京の価値観」からするとどうやっても上に人がいすぎて辛いと思いますから。「俺はそんなの気にしない」ならいいんですが、じゃあ別に東京にいる必要なくないすか?と話は戻るわけです。東京は圧倒的に勝てる人間が他者から称賛される上ではこの上なく気持ちいいですが、指を食わえて見ている立場から見るとこの上なく辛いですから。)

 

みなさん、相対主義の罠にはまり、本も読まずに世界を相対化することなくアリ地獄のような世界で日々悪戦苦闘しています。

 

ここまで書いておいてなんですが、なかなかこれに対する明確なソリューションはありません。

 

ただ私は現状分析したまでです。

 

人類はどこで間違ってしまったのか。

 

マルクスでも読みながら考えてみましょうか。

 

 

 

 

 

 

 

持続する幸福とは何か

半分続きですが。

 

前の投稿をまとめると

 

・いくら年収を増やしても一定のラインから先は幸福度と関係ない

 

・それは人間はどんな状態にも慣れる動物だからだ

 

・ある程度年収が上がってくると、生活必需品や趣味とは別の「見栄張り代」の出費が多くなるが、「見栄張り」は究極の相対評価である以上幸福を生まない

 

・とは言え、まぁお金はあるに越したことがないから、「ラクに年収2000万円」とかを目指せる人は目指したらいいが、「すごく頑張って年収600万円を1500万円にする」のはコスパが悪い

 

こんなことを主張したわけです。

 

結局私が言いたいのは、物質的な幸福には絶対「慣れ」る以上、幸福感は持続しない、という点です

 

何度か言っていますけど、私はタワーマンションの30階にいますが、住み始めて6年でもはやかなりの程度デフォルト化しています。

 

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友達を連れてきたりすると、ちょっと褒められたりするので嬉しいですけど、もはや普段の生活では学生時代のボロアパート住まいの時と何一つ変わらない位デフォルト化してしまいました。

 

まぁ、私はそこまで頑張って朝から晩まで働いてるわけではないので別にいいんですけど、タワーマンションやメルセデスを手に入れるのに労働時間を増やして、例えば朝の9時から夜の25時まで働くような生活をする位なら絶対にやめたほうがいいです。

 

「コスパ」の問題です。

 

物質的な贅沢なんてどうせある程度慣れてしまうわけですよ。

 

こういうことを言うと「じゃあお前大宮のアパートに住めよ、代官山のタワマンじゃなくて」といった意地悪な反応をする人もいるでしょう。

 

しかし、残念なことに、もはや私にとっては今の自分がデフォルトなので、大宮や柏のアパートに住むことはできません。(まぁ、どうしてもそうせざるをえなくなったら慣れるでしょうけど)

 

生活水準が上がることの怖さはここにあります。

 

一般的に高い生活水準ですら自分にとってはデフォルト化するので、もはや一般の人の普通がものすごく低く感じられる訳です。

 

そう考えると、生活水準を上げるというのは非常に麻薬的なのです。

 

なので、頑張らないで生活水準を上げられる人はいいですけど、ものすごく頑張って生活水準を上げるのは二重の意味で危険です。

 

一つには、何度も言っているデフォルト化の話。

 

そして、それと関連しますが、一度生活水準を上げると、今度は元に戻った時にすごく不幸になるのです。

 

年収500万円から年収2000万円になって、その後500万円になると、「元に戻る」わけではなく、「元より不幸になる」事は忘れてはいけません。

 

それだったら、朝9時から18時まで働いて、埼玉や千葉に住んで年収500万円とかの生活をするほうが絶対にコスパが良いです。(ま、年収500万円って日本人全体から見るとなかなか所得高い方ですけど、、)

 

では結局人間は何から幸福感を得るのが一番なんでしょうか?

 

それは究極的には

 

・好きな人間と一緒にいる(嫌いな人間と一緒にいない)

 

・(できればあまりお金がかからない)好きなことを見つける。サッカーとか野球とか、将棋とか読書とかブログとか、そういったものですね。

 

・家族や子供と過ごす日常に楽しみを見出す

 

こういったところだと思います。

 

子供と遊んでいて飽きたり、好きな本を読んでいて飽きることってあまりないような気がします。

 

もし私が死ぬほど働いてポルシェやタワーマンションを手に入れたとして、そういう生き方をしたら人生最後の日にすごく後悔するような気がするのです。

 

結局自分って何のために生きていたんだろう。

 

全部人に見栄を張るための人生だったな、と。

 

もちろんある程度承認欲求を満たしたいのは人間の本性ですからわかります。

 

しかし、東京の港区などではそういった価値観「だけ」で動いてる人があまりにも多く、「自分の物差し」で動いてる人間があまりにも少ないように思います。(ただし、人間は社会的な動物ですから「完全なる自分の物差し」なるものはそもそも存在しませんし、あくまでこれは壮大的な概念ですが)

 

それからちょっと論点がずれるかもしれませんが、基本的にあまり人生に期待しないことです。笑

 

私も若い時は色々と大志を抱いていましたけど、オジサンになってわかったのは、

 

そこそこの目標掲げつつ生きるのは結構だけど、あまりに高い目標持つ人生は期待しすぎるがゆえに不幸になりやすい

 

ということです。

 

大学受験でも、慶応に進学して大喜びする人もいれば一生屈辱を感じるほど悲しい人もいます。

 

それは前者のタイプは地方出身の私立文系型タイプなどで、そこまで期待していなかったからです。

 

「自分は医学部や東大なんてとても無理」だと思っているから慶応で十分満足なのですが、灘や開成にいて東大受験に失敗して慶応に進学した人間は一生コンプレックスです。

 

それは、「俺様位頭が良ければ東大法学部に行って財務官僚になるのが当然だ」と心の奥底で自分の能力に期待しすぎていたからです。

 

私も現役で受験に失敗したときに世間ではかなり一流と言われている大学にも受かっていましたが、やはりそこでは嫌だと思って浪人しましたけど、中途半端に成績がいいとどんどん不幸になるわけです。笑

 

特に日本や韓国は学校が1ミリ単位で縦に並んでますから、関西圏以外から東大を断念して京大に来たやつで欲求不満のやつもいましたし、東大生でも希望の類に行けなくてコンプレックスを抱いている友人もいましたが、これも過剰なまでに期待してるからこそ東大生や京大生なのに学歴コンプレックスがあるわけです。

 

私の幸福に関する考え方は、かなりの程度この時の自分が下敷きになっています。

 

自分の能力を信じるのはいいと思いますけど、自分の人生や能力に期待しすぎるのも不幸への道ではないかと思います。

 

特別なことがない日常に幸せを見出せるようになる方が、ちょっと成功したりお金持ちになったりすることよりもずっと大切だと思います。

 

ただ散歩して青空を見て幸福を感じたり

 

子供と遊んでいて幸福を感じたり

 

こういった些細なことに幸福を感じられるようになれば、圧倒的に「強者」ですよ、社会的に強者ではなくても。

 

ちなみに、当たり前ですけど、これは全て私の考えです。

 

読者の皆さんも、ご自身なりに「自分にとって持続する幸福とはなんだろう?」と自問自答すると自分の進むべき方向が見えてくるでしょう。(上から目線ですみませんが)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

年収と幸福度2

前の投稿の続きですが。

 

「なぜ年収が上がっても幸福度が上がらないのか?」についてそのカラクリをさらに詳細に説明しましょう。

 

私の友人にはわりとお金持ちの人多いので、「金持ちの生態」について、私はある程度熟知しているつもりです。

 

私が、「年収が上がっても幸福度が上がりません」と言うと、「どうせお前もお前の友達も金持ちだからそんなことが言えるんだ」というありきたりな反論があるでしょう。

 

しかし、そんな事はありません。

 

前の投稿でも論じましたが、人間はあらゆる状態に「慣れる」動物です。

 

今年収500万円の人は、「年収1000万円になればあんなことができるのに」と考えるわけです。

 

たしかに、年収が500万円から1000万円になった「直後1、2年位」はおそらくかなり幸福度が高いと思います。

 

しかし、年収1000万円に慣れてくると今度はそれが「デフォルト化」します。

 

基本的に人間は自分の所得水準に見合った生活をデフォルトとするので、年収が上がっても結局家賃や車、日々行く飲食店といった固定費が上がっていくだけなので、日々幸福で仕方ないなどという事はありません。

 

「あんな店に行けたらいいのに」と憧れていたところで、それがデフォルト化してくるとその高級レストランも「昔の自分にとっての吉野家」と大差なくなります。

 

いまいちピンとこない人は少し想像力を働かしてください。

 

例えば、エチオピアやモザンビークの人間から見ると日本の年収300万円の生活というのは「夢のような生活」です。

 

「蛇口からきれいな水が出るなんて」

「こんなに安くおいしい牛丼が食べられるなんて」

「スマートフォンを持てるなんて」

と彼らは感動するでしょうけど、日本人であればどれだけ貧しくても、それらがデフォルトでない人はいないので、こういったことに感動する日本人はいません。

 

日本で貧しい人は上を見て「年収が増えれば幸せになれるのに」と思い描いていますが、下から自分を見てみるとそれがいかに滑稽かわかるでしょう。

 

また、結局人間というのは「身近な他者」と無意識の比較をします。

 

年収500万円で埼玉で生活をしていた人間が年収が上がり、年収1500万円になり港区に引っ越してきたところで周りとの相対的な力関係で言えば実は何も変わりません。

 

なぜならば、埼玉の北部で年収500万円でも港区で年収1500万円でも「相対的な立ち位置」は何も変わらないからです。

 

年収1500万円になっても埼玉にいればいいところを、やはり見栄を張りたくなるのが人間なのです。

 

「この年収なんだから港区でメルセデス」となるのが人間です。

 

また、学生時代の流れからで言えば、結局年収が高い人間というのはそれなりに学歴が高い人間ですが、学歴が高い人間同士のコミュニティですと、目標となるデフォルトが高くなりますから、相対的な幸福度はたいして変わらないのです。

 

例えば学生の就職話にしても、東大生や京大生同士のコミュニティであれば、「なんだあいつは法務省、二流省庁だな」、「なんだあいつは三菱商事ではなく丸紅か」といった具合にデフォルトがものすごく高く設定されていますから、「主観的な幸福度」で言えば「三井住友ビザカードに就職した地方出身の明大卒」のほうが上だったりする位です。

 

別の投稿で「上に行きたければ周りのデフォルト上げろ」といった趣旨のことを私は言っていましたが、たしかに社会的に上昇するには周りのデフォルトをあげるべきですが、「幸福度」という意味ではデフォルトを上げてもたいして変わらないのです。

 

ただこれはかなりの程度主観的です。

 

「大変な思いをしても偉くなることに圧倒的な人生のプライオリティーがある人」もいるでしょうし、私のように「偉くなれるものなら偉くなりたいけどすごく頑張ってまで偉くなりたくない人」もいます。

 

これは価値観と言うほかないでしょう。

 

ところで、中途半端にお金があるとそれなりに見栄を張るのが人間です。

 

そして見栄というのは、「相対評価」でしかありませんから、底なし沼であり全く幸福感を生まないものなのです。

 

東京カレンダーの世界がまさに好例です。

 

じゃあ結論としてどうすればいいのか?

 

・まずは年収500万円くらいまではさすがに年収と幸福度が比例してるのでがんばってみる。

 

・そこから先は「がんばらなくても年収がどんどん上がる人」は一応年収を上げる方向で頑張る。「すごくがんばって年収を上げる」のは滑稽と悟る。

 

・見栄とかよりも、「お金がかからない好きなこと」で人から承認されることを目指す。例えばサッカーとか将棋とか、ブログとか。

 

こういった方向で考えていけば、多くの人は「相対評価の罠」から抜けられるのでしょう。

 

※最後に断っておきますが、「年収が上がっても『たいして』幸福度が上がらない」だけで、もし宝くじに当たってお金がもらえたり、親が金持ちで相続できるなら、それはもらったほうがいいですよ。

私が言ってるのは「コストパフォーマンス」の問題ですから、「がんばって年収を上げるのは馬鹿げている」だけで、別にお金があるに越した事はないです。上でちょっとミスリーディングな言い方をしたかもしれないので。