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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

年収と幸福度

こないだ対数の話をしましたが、基本的に世の中には対数的な関係になってるものが非常に多いです。

 

私は「頑張って働いて年収を増やして幸せになろう」という考えに非常に懐疑的ですが、それは結局年収と幸福度の関係が対数的だからです。

 

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私も年収250万円でお金がなくて苦しんでる人には「もうちょっと稼いだほうがいいと思いますよ」とアドバイスをするかもしれません。

 

しかし、年収で言うと400〜700万円(幅があるのは東京なのか地方なのか、独身か既婚かによって変わってくるからです)あたりから先は年収と幸福度の相関が薄くなってくるので、しゃかりきに働いて年収を増やすという考え方はあまりコストパフォーマンスが良い考え方ではありません。

 

どうせ頑張って稼いだところで、その稼ぎは「見栄張り代」にどんどん消えていきますし、悲しいことにどれだけ高価な時計や衣服を買ったところで、どれだけ高級車やタワーマンションを手に入れたところで、人間は恐ろしいことにそういった状態に「慣れる」動物ですから、全くコストパフォーマンスが良くないのです。

 

年収200万円の人と800万の人だと、4倍かどうかはともかく、かなり幸福度に差はありますが、年収1000万円と年収5000万円の幸福度なんてほとんど変わりません。

 

なせならば、年収5000万円になったらなったでそれがデフォルト状態になるわけで、幸福感が永遠に続くわけではないからです。

 

よしんば幸福度が増したところで、上のグラフを見てもらったらわかりますが、非常にその増加率は低くなります。

 

このように考えていくと、たいして頑張らないで年収をあげられる人は年収を上げるべきですが、「頑張りまくって年収を800万から2000万に上げる」ような生き方は本末転倒でしょう。

 

そういう生き方の人は永遠に「年収が2000万円から5000万円になれば余裕がある生活ができるのに」と不満を抱き続けるわけですから。

 

港区女子も一緒ですけどね。

 

ある程度から先は、「心の持ちよう」ですよ、幸福度なんて。

 

 

 

 

勉強することのメタレベルでの意味

こないだ紹介しましたが、私は大学受験生や語学の学習者のために専用のブログも書いていますが、このブログで書いていることとやはりちょっと違うんですよね。

 

私は勉強や受験といった狭い了見を超えた「社会科学としての教育思想」というレベルでものを考えているつもりですが(とは言え学術論文ではないのでもちろん知れてますけど)、そうなると現行の受験システムや教育制度についてある程度批判的にも考えたくなります。

 

まぁ私の存在が限りなく社会的に意味がないことを考えると、私が教育思想について論じたところでその意見が文部科学省によって採用される可能性はほぼゼロですから、このブログで語ることにどこまで意味があるかどうかは怪しいわけですけどww、とにかく私は教育について色々と思うところがあるわけです。

 

しかし、受験生向けのブログでは「禁欲」していかに現行制度で勝ち組になるかどうかについて「だけ」論じています。

 

ですから正直に申し上げてものすごく言っている事は浅いですし、見方によってはくだらないとすら思います。

 

同じ人間が論じているのになぜここまで言っていることが違うのかと言うと、思想レベルで考える時と現実的な受験生のアドバイスをする時だと、「前提」の受け入れ具合が違うわけです。

 

「べき論」で考えると、今の大学受験ははっきり言ってやばい。笑

 

特に文系はくだらなすぎて呆れてしまいます。

 

高度経済成長期と全く前提となる価値観が変わっていないからです。

 

高度経済成長期に必要な理想の人間像とは

 

「決められたことを寸分違わずに期限までにやりぬく人間」です。

 

これが現行の受験制度のモデルになっています。

 

官僚であり工場労働者です。

 

要するに、たいして頭を使わずに人から言われたことを期限までにやり抜く能力がある人間が優秀だと見なされているわけです。

 

こういった前提をもとに今の入試制度や教育制度は成り立っています。

 

21世紀のAI時代にこんな20世紀的な入試をずっと続けているなんて頭がおかしいとしか思わないんですけど、なにせ今の社会で上に立っている人間というのが一流大学の人間ですから、基本的に「自分たちを肯定してくれる価値観」を否定するような試験制度はなかなか受け入れ難いのでしょう。

 

自分を勝たせてくれるルールを否定するってなかなか難しいですよ。

 

ドラゴン桜じゃないですけど、今の社会のルールで勝っている人間が自分に都合が良いルールを作ってわけですから、なかなか社会は変わりませんね。

 

ただ、私は現行制度に非常に懐疑的でありながら、「一般論」で言えば低学歴は馬鹿にしています。(例外はありますし、職人系の高卒の方とかで尊敬している人もいますが)

 

矛盾してないかって?

 

いや、全然矛盾していません。

 

理由は単純です。

 

たしかに現行システムの中高の勉強は知識や暗記中心で「批判的に考える」要素は極めて少ないですし、「人から言われたことができたら良い」という意味で全然頭を使ってないと思います。

 

しかし、自分の頭で考えるためにはまずある程度の知識がいりますし、「守破離」ではないですが、まずはお手本になるような知識があってこそ批判的な能力も涵養されます。

 

さらに決定的な話ですが、現行制度の中高の勉強はくだらないですけど、結局そこで結果を出さない限り日本のホワイトカラー社会は認めてくれないですからね。

 

結局、日本の学校教育の勉強ができない奴が勉強や学歴について何を言っても「負け犬の遠吠え」になるわけで、そんなことがわかっていながら勉強しないということが頭が悪いんです。(たまに「僕は全然勉強できなかったけどできたほうがいいよね、いろいろ知ってる方が楽しいしできる人は素直に尊敬するよ」と素直に認めるような方もいらっしゃいますが、こういう方はある意味「頭がいい」のです。ちなみにこういった思考回路の人は料理人や美容師とか職人系の人ですね。)

 

別に私は二流大学に行く学力しか持ってないから頭が悪いと思いませんけど、今の日本社会の前提を考えて、「受験勉強をしない」という選択やジャッジをしたこと自体が頭が悪いと思うんですよ。(ハッキリ言いますが)

 

もちろん大谷翔平や亀田兄弟、野沢さん(カリスマ美容師)ぐらい「圧倒的な何か」があるなら別ですけど、そんな能力もないのに受験勉強程度の勉強すらしないことが非常に頭が悪いと思うのです。

 

標語的に言えば

 

学力が低いから馬鹿なわけではなく、学力を身につけようと勉強しないこと自体がメタレベルで頭が悪い

 

わけです。

 

よく「勉強ができるから頭が良いわけではない」と言う人がいますが、私はこの言説に関して普通の人と全く逆の解釈をしてるんですよ。

 

別に勉強ができること自体は大した意味がないわけですが、「たいしてスポーツや芸術といった特別な才能がないのに『勉強しない』という判断をすること自体が死ぬほど頭が悪い」と私は考えてしまのです。

 

「生きる術」というかメタレベルで考える能力がものすごく低いと思うんです。

 

私も時と場合によっては「日本の教育なんて官僚的で全然終わってますよ」と言いますが、それを私が言えるのは私がそれなりに日本の教育の勝利者だからです。

 

全く同じような趣旨のことをこないだ東洋大学の出身者(中退?)の方が言っていましたが、私はこの人が途方もなく馬鹿だと思うのは、「自分のスペックでその発言をしたら周りの人間がどう思うのか」を想像できない点です。

 

東洋大学卒の人間が「日本の教育改革について」といった大上段な話で日本の現行の教育を批判したところで、全く説得力がありません。

 

貧乏人が「人生お金じゃないよ」と言ってみたり、低学歴が「日本の高学歴なんて官僚的で決められた答えが解答できる人間でしかない」と言ったところで、果たして誰が耳を傾けてくれるでしょうか??

 

結局こういったところが「わからない」のが「メタレベルの頭の悪さ」ということなのです。

 

長くなりましたがまとめると

 

日本の教育や受験はくだらないが、そのくだらない現行制度で勝つか、大谷翔平や亀田兄弟のような図抜けた何かがない限り社会はあなたを認めません

 

ということです。


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「いつか死ぬ」ではない

このブログをお読みの貴方はおいくつでしょうか?

 

50代の方から10代後半の方まで様々な方がいらっしゃると思います。

 

人によって「死」の捉え方も違うでしょう。

 

我々は頭の中で「自分はいずれ死ぬ」と思っていますが、死刑宣告や「余命○ヶ月」のように「○月○日(頃)に死ぬ」とわかっているわけではないので、日常的に暮らしていると「死」という悲しい事実についてついつい忘れがちです。

 

これをドイツの哲学者であるハイデガーは「ダスマン」と揶揄しています。

 

「あと1年で確実に死ぬ」と分かっていたとして、必死に働いてメルセデスやロレックスやタワーマンションが欲しいでしょうか?

 

あと1年で死ぬとわかっていて、今日が1/365だと強く意識していたら、歌舞伎町で遊んだりつまらない上司と新橋で飲んだりするでしょうか?

 

当然答えはノーでしょう。

 

私は人生でもっとも大切なリソースはお金でも物でもなく「時間」だと思っています。

 

贅沢をするためにしゃかりきに働くなど論外です。

 

本当にあと1年しか生きられなかったら何をしたいのだろうか?

 

そのように自問自答すると、明らかに無駄なことを日常から排除することができるでしょう。

 

徒然草で吉田健康も

「みんないつか出家したいって言うねんけど、『あれが終わってから』とか言うねんなぁ。そんなん言ってたらいつまでもその『出家の時』なんてけーへんよ」(関西弁訳)と言っていますが、私はその意味するところが非常によくわかります。

 

このように「限りある生」を突き詰めていくと、最終的に何がしたいのか見えてくると思いますが、やはり

 

好きな人と好きなことをしたい

 

最終的にはここに行き着くと思うのです。

 

他人から承認されたい

 

とか

 

ブランド物が欲しい

 

とか

 

モテたい

 

とか

 

 

そういった欲望は限界状態になると極めて二次的だと思うんですよね。

 

ちなみに、こういったお話になると似たようなアドバイスとして「明日死ぬかもしれないと思って生きなさい」というアドバイスもあります。

 

たしかに、理屈の上では今日死ぬもしれませんし、明日死ぬかもしれませんが、ここまで極端な思考実験をしてしまうと、結局何もできなくなってしまうと思うのです。

 

ですから、「毎日大切に生きる」ためのよすがとしてちょうどいい思考の塩梅というのが「あと1年」ないしは「あと3年」くらいだと私は思っています。

 

これぐらいだと生の有限性を感じつつ、完全なる限界状態でもないちょうどいい塩梅だと思うからです。

 

メメントモリですね、究極的には。

 

 

 

 

 

 

 

 

ノーベル賞受賞者の出身校から言える事

私はたびたび勉強や受験の話をしますが、まぁ興味ない人はスルーしてほしいんですけど。

 

世の中には、受験学力等に対して非常に肯定的な人と非常に否定的な人の2パターンが非常に多いと思います。

 

結論から言うと私はその「間」なんですけど、受験学力と知的レベルが完全に正比例だと勘違いしてる人が世の中にいます。

 

例えば早稲田出身の人と明治出身の人がいて、「学歴だけ」で後者より前者の方が「知的レベルや教養レベルが高い」と考えるような人は日本人に非常に多いと思います。

 

まぁ、私はこういう人間は馬鹿だと思ってますけど。

 

では、受験学力と知的レベルには全く関係がないのか?

 

やはりそれもちょっと違うんですよね。

 

これは私の持論(ノーベル賞理論と呼んでますけど、誰か広めてください)ですが、教養水準や知的レベルと受験学力は基本的に対数logの関係だと思っています。

 

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おそらく偏差値60位までは、受験学力とおよそ人間の知的な能力の全ては比例してると言っていいです。(100人に1人位の例外はいると思いますけど)

 

しかし、偏差値60を超えてくるとあまりその相関はなくなってきます。

 

出身校の偏差値が62の人間より偏差値66の人間の方が圧倒的に知的レベルが高いのか?と聞かれたらそんな事はないと思います。

 

テストの能力は所詮処理能力や暗記能力だけを試しているものだからです。

 

このケースだと前者より後者の人間の方が「受験学力が高い」だけで、前者の方が後者よりも自分で考える力やプレゼン能力、哲学的に深く考える力が上だったりする事はよくあります。

 

仕事の能力も前者の方が後者よりも上の事はあり得るでしょう。

 

しかし、やはり偏差値50と60の「差」は単純に脳のスペックの「差」と言えます

 

誤解を恐れずに言えば、日大や東洋大学、それ以下の大学にしか入れない人は、受験学力が低いのではなく、ただ単に脳のスペックが低い。

 

ここでムキになって反論する人もいるかもしれませんが、これは事実なので仕方ないです。

 

スポーツに例えて言えば、基礎体力と個別の競技の能力に似ています。

 

阿部慎之助と香川真司を比べたときに、それぞれ、野球への適性とサッカーへの適性を感じます。

 

阿部慎之助がサッカーをやったら、絶対プロにはならないでしょうし、香川真司が野球をやっても絶対プロにはなれないでしょう。(余談ですが巨人の坂本あたりはサッカーでも成功したようなタイプでしょうけど)

 

しかし、おそらく彼らは草サッカーや草野球のレベルだったらどんなスポーツをやってもできると思うんです。

 

人間の知的能力も似てるところがあります。

 

偏差値60位までは基本的に脳のスペックの問題であり、そもそもここに到達できない人は文章を書かせても哲学的に考えさせてもおそらく大したことはできません。

 

しかし、偏差値60位を超えてくると、「適性」の問題がかなり出てきます。

 

つまり「暗記能力に優れているのか」、「考える力に優れているのか」、「処理能力が高いのか」etc

 

どこで勝負するかによって変わってきます。

 

ですから、私は偏差値60位までは極めて学歴主義ですけど、その閾値を超えたら個人差の方が大きいと思っています。

 

例えば関西で言うと京大卒と神戸大卒の間に受験学力以上の脳のスペックの差があるかと言うとほとんどないと思います。(「聞こえ」はかなり違うでしょうけどね)

 

まぁ、「京大卒100人」と「神戸大卒100人」の「平均値」で比べたらやはり差はあるような気がしますが、個人個人で見たらばらつきがかなりあるので結局個人差という話になるでしょう。

 

少なくとも私は早稲田や立教、神戸大の出身者と話していて東大や京大の出身者と優位な差を感じる事はほとんどありません。

 

しかし、やはり神戸大や早稲田と日大や東洋大、甲南大には極めて大きな差があります。

 

大げさな言い方をすると、頭が回転や知識量、ボキャブラリー、あらゆる点においてやはり大きな差があるのです。

 

日本のノーベル賞受賞者を見ても、当たり前ですが全員が全員東大理三出身者ではありません。

 

もし仮に受験学力と知的レベルが完全に比例しているのであれば、ノーベル賞受賞者は全員東大かせめて京大の出身でなければ説明がつきません。

 

完全なる学歴主義が破綻しているのは、この事実が証明しています。

 

所詮受験学力が表しているのは暗記能力や処理能力であり、研究能力や独創性とはちょっと別なんでしょう。

 

しかし、そうはいっても、受験学力と研究能力や独創性に全く相関関係がないわけでもありません。

 

現実に、日大や東洋大学の理系からノーベル賞受賞者など1人も出ていませし、今後も絶対出ることがないと断言できます。

 

つまり、やはり受験学力は「一定のライン」までは非常に信頼できる指標なのです。

 

名古屋大学や山梨大学といった国立大学に入れる位のスペックがないとやはり研究者としてきついようです。

 

結局まとめとして言いたいのは、受験学力と教養や知的レベルの関係は「対数」ですから、ある所までは非常に信頼できますがあるところから先は個人差の方が大きいのであまり細かい偏差値の差は関係ないという、そういった関係になっているのです。

 

完全なる学歴主義者も完全なるアンチ学歴主義者も間違っているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

所詮みんなどこかで妥協して生きている

こないだ口の悪い医者が、「歯医者なんて医者になれなかった人間だろう」とバカにしていました。

 

よく「○○は××になれなかったから」という表現を使う人がいますが、少なくてもそういった社会的な序列に関して言えば、皆さん少なからず妥協しながら生きてると思います。

 

たしかに歯医者や薬剤師は医者になれなかった人でしょう。

 

しかし、ではそのお医者さんも自分の一番行きたかった医学部に行って、一番好きな科を選んで、100%望むような医者ライフを歩んでいるのか?

 

そんな事は絶対にありません。

 

「歯医者は医者になれなかった人間」ですが、そういったことを言い始めると、ほとんどの人間は小学生や中学生の頃の「将来の夢」のような職業にはつけなかった人間です。

 

私は本当はサッカー選手やお笑い芸人や俳優になりたかった。

 

それでもその夢が叶わないから、仕方なく大学に進学したり会社経営をしてるわけです。

 

そういった意味で私の人生も所詮「妥協の人生」です。

 

広告代理店マンや商社マンでも「小学生の頃からなりたかった」人がどれだけいるでしょうか?

 

あくまで俳優やスポーツ選手、歌手といった本当になりたい仕事につけないから、現実的なオプションとして最上位なものとしてそれらを選んだのではないでしょうか?

 

しかも、その比較的現実的なオプションの中でも、「三菱商事に行けないから丸紅にいく」とか、「理系の研究者として通用しないからゴールドマン・サックスにいく」とか「司法試験に受かったものの、四大事務所からオファーがないからマチベンをやる」とか「財務省に行けないから厚生労働省に行った」とか広い意味では華やかの職業についてるような人ですらどこかで必ず妥協をしています。

 

こういった意味で妥協してないと言えるのは山口真由さんや岩瀬大輔さんくらいでしょうか。

 

また、大学にしても、日本や韓国のように完全に縦に並んでいるカーストですと、ほとんどの人間は広い意味では妥協をして進学先を決めています。


結局本当の意味で妥協しないで進学先を決めている人間など0.3%程度でしょう。

 

仕事にしても進学先にしても、結局われわれはあくまで「可能な範囲」から「自分の第一志望」を設定して満足した気になっているだけです。

 

社会的なカーストという視点から見ると、ほとんどの人間は妥協の人生を歩んでいますし、別に私はそれが悪いことだと思いません。

 

社会には定員があるからです。

 

ちょっと下の人間を見下すために「お前は所詮○○になれなかったんだろう」とバカにして悦にいるくだらなさについては自覚するべきでしょう。

 

私もあなたも何かしら妥協をして人生を生きているわけですから。

 

 

 

 

 

 

数字を越えたところに本物の世界がある

私は昔英語の講師をやっていたこともあって結構英語の先生の友達が多いのですが、こないだたまたまTOEICの話になり、

「TOEIC900点でTOEIC900点を目指して取れた人なんてあんまりいない」
 
と言われ、「確かにその通りだ」と納得しました。
 
ちょっと語学に疎い人にはピンとこないかもしれませんが、そもそも普通に英語ができればTOEICで900点なんて取れるわけで、「わざわざ」目標にするものではありません。
 
むしろ皮肉なことに、ひたすらTOEICの問題集を買い込んで900点を目指しているようでは900点はとれません。
 
別に私はここでTOEICの話をしたいわけじゃなくて、これらは1つの比喩であり、物事のあらゆるケースに当てはまる話をしてるのです。
 
自分はさておき、本当に凄い人は数字で目標を立てたりしません。
 
例えば年収にしても、孫さんや三木谷さんが「年収30億を目指そう」などとせせこましいことを考えていたのでしょうか?
 
そんなはずがありません。
 
ビルゲイツだってお金持ちすごくなりたくて今のような状態になったはずがないと思います。
 
彼らはもっと「上の世界」を考えていたように思います。
 
本当にスーパーなレベルになれば数字なんて勝手についてくる。
 
これが真理だと思います。
 
数字で目標を定めてうちはまだまだ二流ということですね、自戒の念を込めて。
 
 

理解にはレベルがある

「理解」という言葉があります。

 
何か物事がわかった時に使う表現です。
 
簡単なようでこの言葉はなかなか難しい。
 
私は昔から普通の人が理解できることが理解できないことが多々ありました。
 
ひょっとしたら自分は頭が悪いのではないかとずっと思っていました。
 
しかし、その「わかっている人」と話してみてわかった事は、「物事を理解する基準」が私とそういった人でちょっと違うのです。
 
生まれ持った性格か他に原因があるのかわかりませんが、私は物事をものすごく厳密に理解したいという欲求が非常に強い。
 
ですから、正直小中高の勉強なんてまるで面白くありませんでした。
 
なぜならば、数学にしても歴史にしても、中学や高校の勉強は「どこかでごまかしたような説明」でしかないからです。
 
よく、「AだからB」という関係を因果関係と呼びますが、高校までの勉強でこういった因果関や定義を厳密に理解しようとしても頭がいい人ほどよくわからなくなるはずです。
 
それぐらい本来物事を理解しようとするのは難しいことなのです。
 
もし何か対象について理解できないとしたら、もちろん自分の頭が悪い可能性もありますが、そもそも理解できるような説明になってない説明である可能性が非常に高いです。
 
物事を理解するというのは実はものすごく難しいことだと私は思っています。
 
世の中の人間が何かを理解したと思っていることの大半は、「浅く理解した気になっているだけ」です。
 
生意気ですけど私はそのように思っています。