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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

承認欲求について

この投稿でも「承認欲求」というワードは69回ぐらい使ってきましたが、私は自説として「人間のほぼ全ての行動は承認を求めている」と常々述べています。

これに関して私は日ごろから「欺瞞」を何度も指摘してきました。

「いや、別に人の目というより自分の目かな」
「別に港区にこだわってるわけじゃなくて、たまたま海が見えるから港区にしただけだよ」
「自分が納得すれば人の評価とか関係ないっすよ」
etc

様々な欺瞞と嘘を暴いてきましたが、そもそもなぜ人は「人の目なんて関係ないっすよ」みたいなことを言いたがるんでしょうか?

それはおそらく教育や社会の雰囲気として「人の目を気にしていることは低俗なことで、自分の信念に従っている事が高尚なことだ」という「刷り込み」があるからです。

冷静に先入観を抜きにしてゼロベースで考えてみたときに、「人の目を気にすること」が悪いという意味がよくわかりません。

「人の目を気にするのはよくない」という考えがそもそも壮大なドグマであり洗脳です。(この理由については以下の※に)

アリストテレスも言っているように人間は社会的な動物ですから、自己を定義するには他者の目が不可欠で、他者の目を抜きにした自己など存在しえません。

「人の目なんて関係ないっすよ」という趣旨の発言が途方もなく浅いのは、結局「人の目なんて関係ない」と達観してかっこつけてる自分がかっこよく、それによって他者からの承認を渇望しているという根源的な矛盾があるからです。

「人から認められるとか関係ないっすよ」と言うことによって実は人に認められたいという矛盾があるのです。

そもそも人間は社会的な動物であり、社会から切り離された「やりたいこと」も「自分の目」も存在しえないことに気づかないといけません。

みなさんも「人の目なんて関係ないっすよ」的な達観ぶる輩がいたら「そうやって発言してること自体が承認を求めているのではないの?」と論破してやって下さい。

ある程度頭が良い人間ならその論理矛盾に気づくはずですが、あまりに頭が悪い人間だと「いや、それとこれは違うよー」などと苦し紛れの言い訳を言いそうですが。。。笑

※結局「人の目を気にしないで自分の信念で生きるのがかっこいい」という刷り込みやドグマがあるからです。

そしてそういったドグマがなぜあるのかまで考えてみると、日本人が特に人の目を気にする人種だからです。(cf 世間、阿部謹也)

日本は階級社会ではないですから、それなりにみんなが中流だと思っているからこそ人の目を気にするんでしょう。

貴族と平民位差があれば、お互い気にする必要もないわけですから。

本来的に人の目を気にする人種だからこそそのアンチテーゼとして「人の目を気にしない方がかっこいい」という社会通念が生まれたのではないでしょうか。

みんな生物のレベルではセックスがしたいからこそ、「下ネタははしたない」という社会通念が生まれたように。

リバースサイコロジーですよね。(あまのじゃく)

一般論にしていいこと悪いこと

人間とは何故か自分の体験を一般論として他人にも当てはまるべきだと考える動物のようです。

例えば、外資系企業で働いていてクビになった男性が「やっぱり労働環境がきついし外資系企業はだめだね」なんて言ったりしますが、これもめちゃくちゃな一般化です。

それが当てはまる人も当てはまらない人もどちらもかなりいるのではないでしょうか。

それから私の友人で外資系金融機関で働いてる男性は、同僚の女性と結婚し最近離婚したのですが、彼は「やっぱりキャリアウーマンは結婚相手として適さない」と結論付けていましたけど、これもかなりめちゃくちゃな一般化です。

キャリアウーマンと結婚して順風満帆な人生を送っている人もたくさんいるわけですから、この一般化もいまいちです。

私は思うのですが、世の中の現象には一般化して良いものと悪いもの、一般化に適するものと適さないものがあるような気がします。

例えば、身長とか所得とかペニスの大きさとかある程度平均値や中央値にかたまっているものに関しては平均値や一般論でお話をすることに意味があります。

しかし、生き方とか恋愛とかそういったお話に関しては、一般化など意味がなく、属人的に判断するべきとしか言いようがありません。

世の中には一般論で語って意味があることと意味がないことがあるような気がします。







四谷学院のCM

この季節は、受験産業に従事している者ならご存知の通り、「浪人生」を囲い込む一年に一回の大イベントです。

 
首都圏限定の話ですが、四谷学院の広告は有名です。
 
「なんで私が◯◯大に」という毎年お馴染みのアレです。(◯には東大早慶などが入ります)
 
これはアフィリエイトをやる人間にとって非常に参考になる広告です。
 
何でもそうですが、「一握りの限られた人間にしかできない」のであればほとんどのお客さんは顧客ターゲットではなくなります。
 
「なんで私が」が味噌ですよね。
 
ギリギャルもそうですが、ありえないレベルから飛躍したからこそうまみがあるわけです。
 
女の子のモデルにしても、絶世の美女ではなく、えびちゃんやもえちゃんが流行るのも「手が届きそう」だから。
 
どんなビジネスでもミソは「誰でも届きそう」というところです。
 
「何で私が」もギリギャルも、よくよくヒストリーをたどっていくと、元の頭が良かったり、家庭環境が恵まれていたり、実は「何ら驚きはない」場合がほとんどなのですが、そんなほんとのことを言ってしまったらビジネスにならないので、「不都合な真実」はふせ、「何で私が!?」と消費者を煽るわけです。
 
およそ都会のビジネスとはこのように成り立っているのです。
 
四谷学院のCMは社会の縮図です。
 

なぜ人間はこんなに利己的なんだろう

これは極めて哲学的な話なのですが。

私は子供の頃から「なぜ自分はこんなに利己的なのか」ということをずっと考えていました。

ちなみに言っておくと、別に私が世に言う所の自己中人間というわけではなく、もっと深いレベルの話です。

例えば小学校の時も「自分だけ徒競走で1番になりたい」、「自分だけいい点を取りたい」、「みんな持ってないおもちゃが欲しい」とかそういった感覚はなぜ生まれるのか常に考えていました。

どれだけ仲の良い友達と言っても、やはりどこまでいっても「他者」なのです。

どれだけ仲の良い友達に「加藤、1000万円貸してくれよ、事業やるから」と言われても、やはり私はイエスとは言わないでしょう。

悲しいことを言えば、どこまでいっても自分の家族以外は所詮他人なのです。

しかし、これは我々一人ひとりに責任があるというより、ある種の生物としての限界なのです。

例えば我々の身体は、細胞からできています。

しかし一つ一つの細胞に自由意思はなく、基本的に「わたし」という意識の支配下にありますから、原則的に細胞と細胞が喧嘩する事はないのです。(私は生物学の専門家ではないのでひょっとして間違ってたらごめんなさい)

細胞Aが細胞Bを嫉妬する、ということも、細胞Cが細胞Dにマウンティングするという事はないのですが、それは細胞は「わたし」というチームを構成する要素だからです。

細胞同士の「違い」はたいした「違い」ではないのです。

やはり、大きな境界線は「わたし」と「わたし以外」に引かれており、この境界線というのはどこまでいっても埋まる事はない断絶です。

結局我々がそこまで私財を投げ打ってまで人助けに集中できないのは、我々が自己中というよりも我々の「意識のあり方」に問題があるようです。

先程の話ですが、小学校の徒競走でも自分と友達が意識として独立しているわけではなく、感覚が仮にヒュージョンしてくれたら「わたし」と「友達」の存在的な差は原理的になくなりますから、自分だけ得をしたいという感覚はそもそもなくなります。

同じように、友達が困ってる話を飲み屋で聞いてもその3日後にはやはりちょっと忘れています。

それは結局我々の「意識」とその友達の「意識」が別物だからです。

私とその友達の意識が仮にヒュージョンできるとしたら、私は起きているときに常に彼の痛みを肌感覚で感じますが、我々の存在や意識というのはそうはなっていないのです。

結局あらゆる社会問題の根源にあるのは、我々の意識が独立してることにありそうです。

我々がいくら共感の力に満ちている動物だといっても、所詮その共感は持続しないのです。

なぜならば、何かを感じる主体が別のものだからです。

みもふたもないことを言ってしまうと、人間の存在や意識がこのようなものである限り、究極的に社会問題の解決は根源的には不可能です。

本当にみもふたもないことなんですが、ちょっと思ったことです。

早稲田慶応攻略法1(ア)

早稲田慶応攻略法総論

 

この文章は、主に浪人が決まった浪人生やこれから本格的に受験勉強始める高校3年生に向けて書いております。

そして受験生の中でもとりわけ、早稲田大学・慶應義塾大学志望者にターゲットを絞ってお話をしていきたいと思います。

早稲田慶応という私大の雄をいかに突破するか、そしてなぜ早稲田慶応が圧倒的なブランド力を誇っているのか、を余すことなく解説していきたいと思います。

定期購読じゃない方もいらっしゃると思いますから、簡単に自己紹介をしたいと思いますが、私は現在投資関係の経営者で、京都大学法学部在学中には有名予備校の講師をしていました。

自慢めいておりますが、京大オープン、早大プレといった冠模試でも総合でヒトケタ順位にランクインし、偏差値は80を越えていましたので、おそらく私がここで申し上げているお話はそれなりに妥当だと思っております。


この投稿では、受験指導のプロである私が早稲田慶応の魅力や早稲田慶應の攻略法について伝授していきたいと思います。

まず、なぜ受験生は早稲田と慶応を目指すべきなのか、について論じていきたいと思います。(もう志望がかたまっている方に関しては「いまさら」ですが、地元の旧帝大あたりと比較している方に関しては、一読をお勧めします)

圧倒的な知名度とブランド力


早稲田と慶応は言わずと知れた超有名大学です。特に経済界における慶應の強さは群を抜いており、東大よりも強い分野すらあります。

また、これは今皆さんがどこの地域で勉強されているかにもよりますが、地方の旧帝大よりは私は圧倒的に早稲田慶応をお勧めします。


仙台や福岡にいると、東北大学や九州大学が神扱いされますが、東京に来てみるとそのブランド力のなさに気づくでしょう。

もしあなたが一生地元に居ると固く誓っているのであれば、北大や九大のような旧帝大でも悪くないチョイスかもしれませんが、少しでも就職で東京に出る可能性があるのであれば、早稲田慶応の方が圧倒的に将来の選択肢は広がるということは忘れてはいけません。

後述しますが、受験生は受験勉強をやっている当事者ですから「入学難易度」にこだわる傾向がありますが、社会に出たら、細かい入学難易度などはどうでもよく、学歴など最初の印象にしか過ぎません。

逆に言えば、社会に出たら実力さえあれば何とかなるわけですから、入学難易度や偏差値以上に「なんとなく良さそうなイメージがある大学」を選ぶことの方が大切です。

「社会に出たら実力が大切だ」と私も言いましたが、そうは言っても初対面の人間へのハッタリとして学歴は重要です。

これは一見矛盾してるようで全く矛盾していません。

例えば女性も美人である方が圧倒的にモテますが、やはり大切なのは中身です。

かといって圧倒的に顔が美しくない女性が中身だけでモテるはずもないでしょう。

学歴と実力の関係も全く一緒です。

「どちらか」ではなく「どちらも」大切なのです。

こういった現状を考えたときに、早稲田慶応というブランドが、あなたが人生を生きやすくなる手助けになるのは言うまでもありません。

ブランドのわりに易しい入学難易度


どれだけこれまで不勉強だった人も、1年本気で勉強すれば早稲田慶應には手が届きます。(とは言え、「偏差値40から」では無理です。不勉強とは言ってもビリギャルのような最低限の基礎学力は必要です。)

これが国立医学部や東大京大ですと2,3年は集中的に勉強する必要がありますから事実上下克上は困難ですが、早稲田慶応の文系は本当に死ぬ気でやれば1年でなんとか手の届くとこにあるのが最大の魅力です。

ご存知の通り、早稲田慶応の文系学部は原則として英語と国語と社会だけしか入試科目にありません。

例えば東京大学の文系であれば、英語、数学、国語、物理、化学、世界史、日本史と7科目ありますが、早稲田慶應はたった3科目でいいのです。

しかも、文系の人がネックである数学と理科が一切ないのが早稲田慶應の圧倒的な魅力です。(とは言え、本当はあまりバランスが良くないので良い制度とは思いませんけど、、)

選択と集中で3科目に全ての資源を投入すれば、早稲田慶應は手が届くのです。

私が早稲田慶応に魅力を感じるのは、誰でもとまでは言いませんが、潜在的に早稲田慶応の壁を突破できる受験生はかなりいると思うからです。

死ぬ気で努力すれば手が届くのが早稲田慶応なのです。

これが国立医学部、東大、京大あたりですと、やはり先天的にかなり頭が良くないと厳しい面があります。

それか、中学1年生から鬼のように猛勉強するか。

このような条件を満たさないと東大や京大はエントリーラインに立てませんが、早稲田慶應はそれに比べるとかなり敷居は低いと言えます。(とは言え、最低限の国語力だけは必要ですけど)

ブランド力に対してそこまで難易度がべらぼうに高くないという「コストパフォーマンス」の良さが実は早稲田慶応の最大の魅力かもしれません。

次に、早稲田慶應の具体的な突破法ですが、早稲田慶応のどちらを志望するにしても、どの学部を志望するにしても、「私立文系のセオリー」がありまして、基本的に私立文系は英語と社会で8割を目指し、国語や小論文で沈まない程度に点数を取る(6割くらい)のが「鉄則」です。

英語と社会はやればやっただけ点数が伸びますし(社会は当たり前ですが)、努力量が偏差値に比例します。

ですから、圧倒的に力を入れるべき科目です。

ただし英語と社会の位置づけですが、やはり配点を考えると英語が最重要科目で、世界史日本史に関しては、あくまで「英語はかなりできた上での2番目の武器」だと考えた方が良いでしょう。

例えば、慶応法学部は英語が200点、世界史が100点、小論文が100点です。

仮に英語で8割の160点が取れたら、年にもよりますが世界史と小論文は半分ずつで受かります。

早稲田政経は英語が90点、国語が70点、社会科が70点ですが、早稲田政経も慶応ほどではないですが、やはり英語で8割取れれば、国語と社会は6割づつで受かります。

英語ができるというのは私立文系入試で圧倒的なアドバンテージであり、生命線であるとも言えます。

浪人生などで英語の長文読解のセンスがなかったりすると、ひたすら世界史や日本史の用語集の暗記に走りがちなのですが、世界史や日本史はある一定のところからきわめてコストパフォーマンスが悪くなります。

つまり、勉強時間に対して成績が上がらなくなってきます。

早稲田慶応あたりですと、7,8割が1つの壁でしょう。

ここから8,9割を目指すと3割を7割にあげる時間の数倍はかかると思います。

それぐらい極端に効率が落ちるのです。

だからこそ、早い段階で英語の基礎固めをすることが大切です。

高三の夏までに英語はそれなりにメドを立てて、秋以降に社会に集中するというのが大鉄則でしょう。

具体的な英語の学習法

 


では次に、具体的な英語の勉強のお話をしましょう。

早慶のほとんどの学部で圧倒的に重視されているのが長文読解です。

ですからこの投稿では、「どうすれば長文が読めるようになるのか?」を順を追って説明したいと思います。

とは言え、長文以前に大切なのは語彙力です。

 

ですからまず最初に単語の覚え方から伝授したいと思います。

ものすごく極論を言うと、語学力とは単語力であり語彙力です。

確かに単語力があれば長文が読めるとは言えませんが、単語力がなければ長文が読めないというのは普遍の真理です。

そういった意味で単語は究極の必要条件と言えそうです。

早稲田慶応レベルで英語を得点源にしようと思ったら、かなりの語彙力が必要になってきます。

そこで「単語を覚えるぞ!」と躍起になって『ターゲット』といった単語帳を覚える方もいらっしゃるかもしれませんが、あまりオススメできません。

なぜなら、ただ単に単語が羅列してあるだけの単語帳は一見頭に入りやすいようですが、実は究極的に忘れやすいので全くお勧めできません。

それよりもむしろ、文法問題や長文読解の素材で出てきたわからない単語にマーカーを引いて自分なりに整理する方が圧倒的に覚えやすいと思います。

では単語帳に意味はないのかというと、そういうわけではありません。

まずは文法問題や長文の問題集の中で出てきた新しい単語を文脈ごと覚える必要がありますが、それだけでは「記憶の管理」が難しくなります。

ですから、「最後のまとめ」として単語帳を活用すればいいのです。

 

基本的には文法問題や長文読解問題で出てきたわからない単語をどんどん覚えていくのが鉄則で、単語帳は最後のまとめと考えるべきです。

また、単語に関しては語源で覚えることもお勧めです。

「語源」とは漢字でいう部首みたいなものです。

例えば漢字でもサンズイがつけば水に関することだという推測がつきます。

「江」、「湾」、「河」といった漢字は全て水に関するものです。

もし外国人が日本語の漢字を覚えるとして、このように部首を活用したらかなり効率的に漢字を覚えることができるでしょう。

これと同じことが英語の単語にも言えるのです。

例えば、victは「たたく」という意味で、相手を叩くからvictory(勝利)であり、叩かれるからvictim(犠牲者)なのです。

このように語源によって単語を理解すれば、芋づる式に単語を覚えることができるのでかなりオススメです。

しかし、語源で単語を攻略する戦略も完璧ではなく、あくまでも補助的なものだと思ってください。

なぜならば、これはよく言われてることなのですが、すべての単語を語源で攻略することはできません。

語源というのは、言うならば単語の成り立ちの歴史のようなものですから、そもそも記録が残ってなかったり事実が不明だったりと、いい加減なことが多いのです。

大体すべての単語のせいぜい4割ぐらいしか語源で意味を説明できないと言われています。

ですから、語源はあくまで補助的なものだと思ってください。

文法の学習法

 


次に文法です。


英文法と言うと、かたくなに日本人が英語につまずく諸悪の根源のような扱いをされますが、一定以上の年齢に達した大人が英語を学ぼうと思ったら、やはり英文法という「英語のルール」について知る必要があります。

(これらについては「クリティカルピリオド」といった専門的な研究がなされていますから、ご興味がある方は検索してみて下さい。)

我々普通の日本人は確かに日本語の文法について全く知識がないでしょうが、基本的には日本語文法に沿って日本語を話しています。

これについて非常に誤解してる日本人は多いと思います。

言語レベルで文法を理解しているというのと、文法が暗黙知のレベルになってるという違いがあるだけで、ネイティブもノンネイティヴも文法に沿って話してるという意味では、やはり文法は絶対に必須なのです。

まず文法の学び方ですが、やはり基礎の基礎から確実に積み上げていくべきです。

例えば以下のような簡単な本を何度も繰り返して自分のものにすることが大切です。





安河内先生の本はどちらかというと深く理解するというよりは重要な文法事項を基本からわかりやすく解説しているイメージです。

悪く言えば理解より暗記を重視している本です。

関先生の本は、英文法を丸暗記ではなく理解させようというコンセプトで貫かれており非常にわかりやすい本です。

これは私が今まで読んだ英文法の本の中でも圧倒的に完成度が高いですし、関先生の本は他の本もオススメです。

ただ、わかりやすく理解させることに重点を置いているため、もちろんこの本だけで全てを網羅してるわけではありませんので、それは大前提です。(そして、そのことは筆者の方も前提としているはずです)

つぎに、大学受験の英文法を勉強する際に絶対に気をつけなければいけないのは、「読むための英文法」と「文法問題を解くための英文法」を区別することです。


英文法の本には様々な項目が載っていますが、最低限英語を読むために必要な文法事項はそこまで多くありません。

ですから、あまり勉強の初期の段階で細かい文法事項にハマらないようにしてください。

本屋さんの大学受験参考書コーナーには「英文法」と書かれた本が多いですが、あまりにも成績が低かったりよくわかってない方だと、「読むための英文法」と「文法語法問題を解くための文法」の区別がつかないことが多いと思います。

この本なんかは典型的な「文法語法問題を解くための文法」です。




こういった本は偏差値60位に到達するまでまずは封印しましょう。

純粋な文法問題を解くための英文法は究極的には暗記の要素が強く、あまり早い段階からやりすぎると「英語は暗記だ」という間違った先入観を持ちやすく、そして英語がつまらなくなる可能性があるので、ある程度成績が上がるまでそこまで重視するべき問題ではありません。

特に早稲田や慶応などの最難関私立大学を目指す方は、最終的に必要なのは長文読解の能力ですから、チマチマと模試で2,3点点数を上げるために文法問題に集中するのは長い目で見ると全くお勧めできません。

長文読解と違い、文法問題や社会の暗記は成果が目に見えやすいのでどうしても不安な受験生は飛びつきがちですが、私立文系の究極的な合否を分けるポイントは長文読解です。(それと大学によっては自由英作文)

そして長文読解は一朝一夕でできるようにならないからこそなかなか心が折れそうになりますが、だからこそ早い段階から力を入れるべきなのです。

読むための英文法(長文読解を読むための英文法)の話に戻りますが、まずは、五文型(SVの発見)準動詞、関係詞、倒置、並列関係といった基礎の基礎に絞ってください。

究極的に言えば、英文解釈でなぜ構文が把握できないかというと、それはSVOCといった文の要素が把握できないからです。

そしてなぜSVCOが把握できないのかというと、それぞれの要素が離れているからです。


例えば

I love you.

という英文を読み間違えないのは、なぜなのか考えてみましょう。

単語が簡単だから?

それだけではありません。

I が主語、love が動詞、youが目的語というように文の要素が把握されやすいから、この英文は簡単なのです。

では以下の英文はどうでしょうか。



非常に難しいと思います。

これは『ポレポレ英文読解』からの引用ですが、あまり勉強が進んでいない受験生には難しいと思います。

この英文が難しいのはなぜか?

もし単語が難しいというのであればいくらでも辞書を引いて結構です。

おそらくそれでもやはりわからないでしょう。

単語がわかるのに英文が読めないのはなぜなのか?

答えから言うと、こういった難関大学でよく出る英文というのは、SVOCといった文の要素が離れているから文の構造が把握しにくいんです。

この英文も、まず主語と動詞がどこにあるかよくわかりません。

frankがS(主語)ですか?

そう解釈すると、当然 talks が動詞(V)になりますが、そうすると reveal の位置づけがよくわかりません。

動詞と動詞の間には原則として接続詞か関係詞が来ますから、やはりこの解釈は間違ってるようです。

ではどう考えるのかというと、 frank talks を一つの主語としてとらえるわけです。

この場合、talksは動詞ではなく名詞として働いています。

ちなみにもう一つのアプローチとして、そもそも talk を動詞として考えるとbetweenとの流れがよくわかりません。

英文法として絶対にありえないのかどうか断言はできませんが、talk between はやはり普通のつながりではありえないでしょう。

このように、英文を読むためには単語がわかるだけではなくかなり多角的な分析が必要になります。

これが英文解釈であり英語を読むということです。

中学校までの英語は基本的に英文法をそこまで深く理解している必要などありませんでした。

Do you speak English?

Yes, I can speak English.

I will go to Sapporo next month.

この程度の英文は単語さえわかればわかります。

中学までは究極的には単語さえわかれば感覚で英文は理解できたわけですが、高校レベル、とりわけ難関大受験レベルになってくるとそのアプローチの仕方ですと限界があります。

英文解釈に関しては、やはり本で勉強するより黒板を使って授業を聞いた方が圧倒的に分かりやすいと思います。

お勧めの動画として、以下のものがあります。



私も責任を持ってオススメする以上全ての講座を拝聴しましたが、英語の関先生や肘井先生は非常にわかりやすくすばらしい授業をされるので、圧倒的にオススメです。

スタディサプリは科目にもよりますが、英語と社会に関しては圧倒的に質が高いと思います。

ここで英文法の詳細についてこれ以上達いるわけにはいきませんので、詳細はスタディサプリ等の動画に任せます。

また、ある程度力がある人は授業を見るより本で勉強したほうが早いと思いますから、こういった方にお勧めの本は以下の2冊です。





これらの本に関しては、ある程度本を読んでわかる位一度授業を聞いて勉強した人にはオススメです。

ちなみに難易度としては、ポレポレの方がやや難しいですが、関先生の本も特に後半は易しくはありません。

これらの本がスラスラわからないようであれば、「急がば回れ」で圧倒的に動画を見ることをオススメします。

それから一点注意点ですが、これは動画に限らず一般の塾もそうですけど、特に数学や英文解釈のようなある程度分析的なアプローチが必要な科目に関しては、「授業がわかる」ことと「自分で解ける」ことの間にはかなりのギャップがあります。

もちろん生物や日本史なども授業の後に自分で暗記することは必要なのですが、生物や日本史はある程度わかりやすい授業を聞けば大体3割位覚えてるものです。

しかし、英文解釈や数学に関しては、授業を聞いてるだけですとほぼ全く意味がなく、復習の段階で全く書き込みがない状態で自分で分析して答えが出せないとまるで授業を受けた効果がありません。

科目によって微妙に授業の意味や復習の仕方が違うことに留意してください。

長文読解の読み方

 


次に長文読解の方法論について、です。

まず絶対に勘違いして欲しくないのは、長文読解の基礎の基礎は英文解釈や英文法の涵養であり、英文解釈や英文法と別個の分野として長文読解という分野があるわけではありません

例えば生物であれば、遺伝とホルモンは完全に別の分野として同時並行で学ぶことができます。

日本史であれば戦後史と鎌倉時代は、とりあえず別の分野として同時並行で学ぶことができます。

(もちろん本当に厳密にはこういった分野同士も繋がってるわけですが、大学受験レベルではとりあえず関係ないという意味です)

しかし、英語の場合は、英文解釈というセンテンスレベルの正確な理解抜きに高いレベルに到達することは決してなく、まずは英文解釈を完璧にしてから長文読解に進めなければなりません。

ただしこれも程度問題で、英文解釈が100%完璧になり、京都大学の英文読解でも完全に構文が取れるレベルになってから長文読解に進むというのもやり過ぎですので、ある程度感覚ですけど、90パーセント程度英文解釈が万全になれば後は長文読解と英文解釈は同時並行で進めていいと思います。

こういった科目の特殊性を理解しないといけません。

では、英文解釈はそれなりにできているという前提で、長文読解プロパーのお話をしていきましょう。

まず長文読解の基本的なアプローチの仕方ですが、英語の長文読解の読解に関しては、かなりの程度現代文の学習と似通ってくるという事は言っておきたいと思います。

基本的に入試で出る英文、現代文の99%はいわゆる評論文ですが、評論文とは究極的に社会や人間などについて筆者が何かしらの主張をする文章です。

ですから英語にせよ現代文にせよ、評論文の読解の究極的な目的は筆者の主張を汲み取ると言えます。

「結局筆者は何を言いたいのか」

これを考えることが評論文の読解の全てです。

例えば、筆者が「日本の政府はもっと高齢化社会に対する備えを強化するべきだ」と主張したいとしますが、当たり前の話ですけれども、誰もが筆者と同じことを考えてるわけではありません。

こういった場合に、ひょっとしたら筆者と全く違う意見を持っている人を筆者は説き伏せないといけません。

まったく自分と違う意見を持っていてかつ育った環境も受けている教育も全然違う人を説得するためにはあらゆる手段を駆使しないといけません。

そのためには例えば、他の人の意見を引用したり、具体例を出してみたり、様々な手法があるわけですが、そのテクニックを学ぶのが現代文であり英語の長文読解です。

このブログではさすがに実際に問題を使ってそういったテクニックを一つ一つ解説する紙幅はありませんが、「究極的には何かしらの主張を述べるのが評論文であり、その主張とその理由や根拠について把握するのが評論文の読解であり、それは英語であれ現代文であれ基本的なアプローチの仕方は変わらない」という根本の部分だけは絶対に忘れないでください。

こういった長文読解に関してお勧めの本は以下の3冊ですが、このレベルになってくると絶対にこの本でなくてはならないと言った事はなく、似たような本で自分なりに感覚的にしっくり来る本であれば究極的には何でもいいと思います。

そして長文読解に関してひとこと言っておきたいのですが、これは現代文にもはまりますけど、こういった読解の能力というのは一朝一夕に上がるものではありません。

数学で言うところの一次関数的な伸び方をするわけではないのが英語の長文や現代文、古文に言えることです。

私立文系の人には意味不明な表現かもしれませんが、どちらかと言うと長文読解は対数的な伸び方をします。

ですからある程度勉強していてもすぐにどばっと成績が伸びるという事はなく、半年位くじけずに勉強して初めて急に伸びるものです。

この理由ですが、結局英語の長文読解というのは、そもそもからして「総合問題」なんですよね。

例えば文法問題であれば、「関係代名詞だけ」、「仮定法だけ」という虫食い的な勉強ができます。

日本史であれば、室町時代だけひたすら勉強すれば、とりあえず室町時代の問題の点数だけは伸びます。

生物であれば、遺伝だけやれば遺伝の点数だけはとりあえず伸びます。

しかし、英語の長文や数学、現代文といった科目は、究極的にどんな問題も総合問題なので、あらゆる分野の知識が固まって初めて点になるのです。

(この中では唯一数学は、例えば確率のように比較的独立性が強い分野もあればベクトルと「図形と方程式」のように密接に関係する場合もあって、必ずしも総合問題とは言えない問題もありますけど)

ですから、英語の長文読解や現代文は、生物や日本史のように、特定の分野を勉強したからすぐに点数が伸びるという訳ではないのです。

ここが不安な受験生としては困りどころであり、そこですぐに結果が出やすい英文法や古典文法、日本史を世界史の用語集の暗記などについつい走ってしまう遠因なのですが、長文読解の攻略なくして早稲田慶応の攻略は絶対にあり得ません。

模擬試験ではわりと文法問題や知識問題といったくだらない問題がちょこちょこ出てきますから、そういった問題で偏差値を上げることができるのですが、肝心の早稲田慶応の入試では純粋な知識で解けるような問題はかなり少ないので、模擬試験に惑わされるずに最終的な目標である長文読解の克服は怠らないようにしてください。

 

長文問題の解法

ここまでで長文読解のおおざっぱな勉強法については分かったと思います。
 
まずは英文解釈でセンテンスレベルの短い英文を完璧にし、その後に長文読解のフェイズに突入する。
 
そして長文読解の読み方は究極的には現代文の勉強法と何ら変わりがない、というところまでお話をしました。
 
ここまでがある程度完璧にできているという前提で、「長文問題の解き方」について少し解説をしたいと思います。
 
これは現代文・古文・英語といったすべての読解系の科目に共通なお話ですが、基本的に読解系の科目というのは本文がありそれに関連して設問があります。
 
その本文と設問の関係について誤解している人がいますが、基本的に本文が読解できているかを確認するために存在してるのが「設問」なのです。
 
本当に極論を言えば、東京大学の英語の問題や一橋大学の現代文のように「次の長文を200字以内の日本語で要約しなさい」という問題を出せば実はそれ以上聞くことなど本当はありません。
 
古文や小説などはちょっと例外ですが、英語や現代文の評論文に関して言えば、文章を読解する究極的の目的は筆者の主張をつかむことですから、筆者の主張とその根拠がわかれば文章は読めてると言ってかまいません。
 
しかし早稲田や慶応のような受験者数の多い大学で、そういった記述式の要約問題など出せません。
 
ですから、出題者としては「仕方なく」あんなくだらないマーク式の紛らわしい選択肢の問題を出しているわけです。
 
東大や京大のような直球勝負の問題の方が圧倒的に学力を測りやすいわけですが、それができないから「次善の策」で内容一致問題や空欄補充問題を出題しています。
 
ですから、受験生が勉強していく上で心がけなければならないのは、「本文の正確な理解」であり、「設問をうまく解く」などというのは二の次三の次なのです。
 
繰り返しますが、本来問題文が正しく読めていれば必ず設問は解けるようにできています。
 
なぜなら、本文の理解を試すための手段が「設問」で、目的は本文の読解のわけですから。
 
中堅私立大学とかですと、あまり本文の読解と直接関係のない文法問題や発音問題などを長文読解の中で聞いてきたりすることもありますが、早稲田や慶応の様に偏差値が高い私立大学になればなるほど、「本文の理解と関係のないくだらない設問」は相対的にかなり少なくなります。(それでもゼロではないですけど)
 
つまり、何が言いたいのかと言うと、原則として本文を正確に速く読むことができたら、「設問の解き方」などにそこまで悩まされる必要はありません。
 
早稲田や慶応等の長文読解問題でもしあなたが設問の選択肢に引っかかるようであれば、それはただ単に本文の読解が浅いからであって、設問の解き方が間違ってるからではありません。

 

ちなみにこれが現代分ですと少し事情が変わってきます。

 

もちろん現代文も原則として言えば本文と設問の関係は英語と一緒です。

 

「正確に本文が読めていれば設問は必ず解けるようにできている」と基本的には言えます。

 

しかし、現代文の場合は母国語ですからどうしても本文ではなく選択肢で引っ掛ける必要が出てきます。

 

英語は外国語ですから、そもそも本文を読むこと自体が一苦労です。

 

ですから基本的には、本文がかなり正確に読めているのにひっかかってしまう選択肢というのはほぼありません。

 

逆に英語で本文が読めているのにひっかかって選択肢は「悪問」と言っていいでしょう。

 

しかし、現代文の場合は母国語で書かれていますから、やはりどうしても選択肢で引っかけないと正答率が40%位の問題が作れません。

 

ここに英語と現代文の違いがあるように思います。

 

まとめ

以上のようにいろいろ述べてきましたが、英語の長文読解が読めるようになるためのプロセスは

 

単語や文法を固める

           ↓

英文解釈を固める

          ↓

長文読解問題に着手する

 

という順番と流れを絶対に守るようにしてください。

 

繰り返しますが、一文一文のセンテンスレベルの理解がおろそかなのに長文読解だけはうまく解けてしまう、ということはありません。

 

次に国語・世界史・日本史の勉強の仕方についてお話をしようと思いますが、さすがに文字数もかなりのところまで来てしまったので、項をあらためてお話をしたいと思います。

 

「早稲田慶応攻略法2」を検索してみて下さい。

 

よろしくお願いします。

 






































 

人文社会科学のセンスについて

最近ちょっと人と話していて噛み合わないなと思うことがあるのですが、理系センス・文系センスというか発想法の違いというのは確かに存在するような気がします。

Facebookで議論になる様な事というのは、あえて分類するのであれば人間や社会についての文系ネタです。

「よし、この数式みんなで解こうぜ」とは普通なりません。笑

そして文系の議論と理系の議論というのはかなり発想や思考法が違います。

全員が全員とは言いませんが、理系出身の人間には漠然と理系の方が上であるという意識を持っている人が散見されます。

たしかに高校年代までで言えば、平均的に圧倒的に理系の方が文系より能力が高いので、そう思ってしまうのも理解できなくはないのですが、少なくても社会問題についての議論や教育や人生のお話をする限りにおいて、「理系バカ」は非常に有害です。(理系の全員が全員「理系バカ」という事ではありません、念のため)

理系の人間の悪い傾向として、物事をシンプルにしすぎるというところがあります。

まぁ物理学や数学のような理系の学問というのは究極的には法則化・抽象化が目的ですから、そのような発想になってしまうのは当たり前なのですが、そのための単純化により逆に物事の本質が見えなくなる可能性があるのは否定できません。

経済学や法学のような文系の学問の特徴は、一言で言えばアンビバレンスとバランスです。

社会問題というのは、たいがいのケースで「トレードオフ」の関係になっていますから、理系の学問のようにシンプルに考えすぎると逆に問題なのです。

理系の学問は難しいけど簡単なのです。

そして人間や社会について考える文系の学問は、簡単ですが難しいのです。

おそらく文系の学問はIQ的な意味で言ったらたいして頭はいらないと思いますが、理系とは全く別の頭がいるような気がします。

それは人間に対する深い洞察やバランス感覚、全体を見る力といった、少なくても日本の小中高の学習では全く求められない能力です。

よく人間や社会についての議論をしてる時に「論理的」という言葉を使うアホがいますが、理系バカに限らず文系人間もやたらと論理的という言葉を使いたがります。

しかし、数理経済学などの例外はありますが、基本的に法学も政治学も社会学も人間や社会を対象としているわけで、「論理」というレベルではなく「説得的」、「妥当」という域でしかありません。

私はやたらと論理という言葉を使う人間がすごく嫌いですが、人間や社会について考えるときに論理なんてどこまで妥当するんだろう、と考えてしまいます。

そもそも文系と理系で発想が違うわけですから、何でもかんでも論理的に考えればいいということではありません。

言葉を使った説得なんて所詮数式の証明のようにきれいではないわけですから限界はあります。

文系センスと理系センスについて。