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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

承認を計算しよう

人間の幸福と他者からの承認は、完全にイコールではないにせよかなりの程度相関があると思います。

 

われわれは広い意味では何かしらの承認を求めて生きています。

 

私がブログを書いているのもどこかで皆さんに認めて欲しいからでしょう。

 

もちろん純粋に人に伝えたいことがあるとか純粋にコミニケーションを取りたいという面がないわけではないですが、やはり嘘・偽りのない本音として、人から認められたいから文章書いているところが間違いなくあります。

 

そしてこれはどれだけ偉い作家だろうが大学教授だろうが本質的には変わりません。

 

ところで、承認が人生の大きな目的である事は私のブログの読者の皆さんであれば同意していただけると思いますが、人間という動物は、未来の承認のためには現在の侮辱にも耐えたり、その逆もあったりします。

 

例えば、芸能人として売れる前の下積みとして飲食店でアリのように働いたり、一生恥をかかないように浪人して希望の大学を目指したり。

 

これは未来の大きな承認のために、現在の承認を犠牲にしてるということです。

 

これは現在・未来といった時間軸ではなく、空間軸もあります。

 

商社で窓際族として苦渋をなめている人間も、なぜ辞めないのかと言えば、結局「窓際族としての屈辱(マイナスの承認)」を上回る(プラスの)承認が会社の外で得られるからでしょう。

 

人間は時間意識が極めて発達した動物ですから、「いつどこで承認されたいか」をコントロールすることができます。

 

しかし、私が他人を見ていてちょっと不思議になるのは、より大きな承認を求めて現在の屈辱や恥辱(この投稿では「マイナスの承認」と表現します)に耐えるのはそれ自体理解できるのですが、その大きな承認が完全に目的化してしまうことです。

 

婚活中の女子やMBA等資格のために頑張っている男性などが典型ですが、大きな承認を求めるあまり、逆にあまりに日々不幸になってしまっては元も子もありません。

 

ブランド物を買うために風俗店で働く女性とかも何か「人生の主従」を履き違えてるような気がします。

 

私も人生で色々とやりたいこと自体は無限にありますが、そのいくつかは断念しました。

 

理由は単純です。

 

あとで得られる承認よりも、そのプロセスにおけるマイナスの承認の方が大きいと計算したからです。

 

逆に私は浪人しましたけど、1年間余計に勉強するマイナスの承認<出身校で恥をかかない(ちょっとは自慢できる)承認、だと判断したからです。

 

1年が5年ならおそらくやっていなかったでしょう。

 

これも計算ゆえです。

 

上の例に則して言うと、もし

 

ブランド物を買うことによる承認>風俗で働くマイナスの承認

 

ならば、より大きな承認のためにマイナスの承認を耐え忍ぶのもアリかもしれませんが、普通に考えたらこの不等号は間違ってますよね。

 

しかし、人間は不思議なことに、本来承認の手段でしかないものすら「人生の目的」のように自分で自分を思い込ませるところがあります。

 

タワマンやブランド物、社会的地位等は所詮自分の承認を満たすための手段でしかありません。

 

しかし、一度それが欲しくて欲しくて仕方なくなると、上司に死ぬほど侮辱され、一緒にいてイラっとする同僚ばかりの職場環境でも、ただ「社会的地位が高いから(タワマンに住みたいから)」といった理由でなぜかマイナスの承認を受け入れてしまうのが人間です。

 

女性も「お金持ちだけどブサメンで性格が最悪で自分勝手な旦那」でも耐え忍ぶのは、周りの女性から承認されるためでしょうが、毎日家庭で不快な思いをしてマイナスの承認を増幅させてまで周りの女子からうらやましがられたのでしょうか?

 

私には不思議で仕方がありません。

 

こういった思考回路は明らかに自分の人生にとってマイナスである事は否定できないのですが、多くの人は「そこまで大きくない未来の承認」に向けて、なぜか現在のマイナスの承認に耐えてしまっています。

 

繰り返しますが、人生の目的の上位概念をたどっていくとすべての目的は承認であり、医者になるとかタワマンに住むとか、それ自体は「人生の目的」ではありません。

 

家族といて楽しいとか、食事やセックスが楽しいとか、趣味が楽しいとかそういったプリミティブな喜びはちょっと別として、人生の究極の目標が他者からの承認にあるとすれば、「承認のためのルート」に過度にこだわるのは問題です。

 

(ちなみに、私がここで言っている「承認」はかなり広い意味で捉えています。「社会貢献して充実感があってうれしい」とかも広い意味では他者からの承認を求めていると言えなくはないので。人間の社会的な動物である以上完全に他者の目を抜きにした幸福などあり得ませんから。)

 

「承認のための一ルート」でしかないものも目的だと勘違いしないように気をつけましょう。

 

psちなみに、実は承認のさらなる上位概念は幸福です。

 

究極的に言えば他者から認められなくても自分が幸福感さえあればいいわけですからね。

 

ただ、普通の人間は他人から認められたいというだけで、別に自分でゲームをしてるだけで楽しかったりすればそれはそれで幸福なわけです。

 

これについてはまたいつか。

 

 

 

 

 

 

努力できる才能

『いきものがかり』の水野さんのツイートから引用です。

 

「そして試されるのは「才能」うんぬんではなく、だいたいの場合において「技術」か「蓄積」だ。

練習して、勉強したら、より多くのことが解決でき、より多くの可能性が与えられるのは本当だ。それはすごく当たり前のことだが、当たり前すぎて表裏も脇道もなく、結果として、とても難しい。頑張る。」

 

ご存知の通り水野さんはいきものがかりのリーダーでとてつもない才能を持っているミュージシャンです。

 

しかも文武両道(文音両道?)で学生時代は勉強もできたらしく、一橋大学の卒業生だとか。

 

私は基本的に水野さんが好きなので別に彼を否定するというよりも、彼のこの発言のみを否定したいと思うのですが、私は常々言っていますけど「特定の分野で努力できることが多分に才能」です。

 

おそらく水野さんは音楽に関しては天才ですから、「努力すればできる」と無意識に思っていると思いますが、残念ながらある程度というかかなり才能があるからこそあきらめないで努力できるのです。

 

水野さんに限らず「才能なんて関係ないよ、やればできるよ」という言説が非常に多いですが、私はこの手の意見に対して非常に否定的なのです。

 

理由は2つあります。

 

人間とは身勝手なもので、自分がちょっとできる分野に関しては「才能なんていらないよ、努力だよ」と言いたがります。

 

しかし、自分がちょっと得意じゃない分野を念頭に置いたらそんな身勝手なことは言えないと思うんです。

 

例えば勉強なんかは典型的な「才能なんていらないよ、やればできるよ」と言われる分野ですが、勉強ができるほとんどの人は自分の才能に無自覚です。

 

もちろん才能と言っても大谷翔平や浅田真央のような才能は要りませんよ。

 

しかし、やはり勉強だってかなりの程度才能です。

 

「勉強は才能じゃない」と言いたがる人が浅いのは、勉強の才能がIQとか知能指数的なものだけだと思っているからです。

 

本当は、知的なことに関心を持てるか、とか机に向かって長時間座れるか、といったレベルまで含めての才能なわけです。

 

むしろ最高レベルに行かない限り、知能指数よりもこちらの才能の方が大きいくらいです。

 

私なんかも別にスーパーな才能の持ち主だと思ってないですけど、やはり普通の人よりはそもそも机に毎日向かって勉強できる才能が明らかに高いですし、同じ授業を聞いて普通の人より理解する能力はかなり高いですから、一般の人よりは才能に恵まれていると思います。

 

文章を書くのも人よりは得意だと(自分では)思っています。

 

これは自分が予備校で教える立場になって初めて気づきましたけど、人間は自分ができることに関してあまり才能を感じないものなのです。

 

例えば現代社会は知能が高いことが異常に礼賛されていますから、勉強ができる人は社会から高く評価されるので、「いや勉強なんてやればできるよ」と偉そうに語るわけです。

 

しかし、ではそういった「勉強はできるけど運動音痴な人」に野球やサッカーの名門校の練習に参加させてみてまるで上手くプレイできなかったとして、「あなたが上手くプレイできないのは努力が足りないからですね、努力しなさい」と言われたらその人はなんて反応するでしょうか?

 

人間は自分が困った立場になって初めて自分が傲慢であったことに気づきます。

 

そして自分が努力できたのは自分が才能がある分野だからだったのだ、という当たり前の事実に気づきます。

 

そして2つ目の理由ですが。

 

水野さんのような発言は、誰が誰に対して言うかでまた意味が変わります。

 

別にこれから頑張ろうとしている人に水野さんみたいな発言をするのは別に構いません。

 

しかし、努力しても結果が出なかった人間にこういった発言をするのはちょっと違うと思うんですよね。

 

そしてほとんどの場合において、世の中には結果が出ない人が大多数です。

 

こういった状況を鑑みると、やはり不特定多数の人を対象に「才能なんて関係ないよやればできるよ」という発言をするのは不適切だと思うのです。

 

努力できることが才能である。

 

これは間違いなく真理です。

 

 

 

 

 

 

 

 

命の次に大切なもの

このブログで何度か言ってる事ですが、私は命の次に大切なものは時間と健康だと思っています。

 

(というか命そのものが時間とも言えるので、「つぎ」という表現が適切かどうか分かりませんが。)

 

世の中にはなかなか本末転倒な働き方をしてる人がいて、老後のためにやたらと頑張ったり、寝る間を惜しんで仕事をしたり、健康を害して寿命を縮めながら仕事をしている人がいます。

 

しかし、私から言わせるとこういった働き方は人生の目的と手段を勘違いしてるとしか思えません。

 

もちろん、そもそも生きるためにはお金がある程度必要ですし、お金があることで自由になれることもたくさんあります。

 

しかし、やはり人生でもっとも大切なものは時間であり、健康体であり、その時間を充実させるための手段がお金だと思った方が良いでしょう。

 

また、老後のためにお金を貯めている人も結構います。

 

もちろんある程度万が一のために備えることが必要ですが、人間いつ死ぬか分からない以上、30年後も当然生きてるという前提で現在の時間を犠牲にして老後に備えるというのは不思議です。

 

繰り返しますが、人生でもっとも大切なのは時間と健康です。

 

あらゆることは、その時間を充実させるための「手段」であると心得るべきでしょう。

 

 

活字は力なり

私が昔Facebookをやっていた時、よく私の投稿を気にいっていただいて「会ってください」といったコメントやメッセージを頂くことがありました。

 

しかし、私はほとんどのケースにおいて実際にお会いすることはありませんでした。

 

理由は単純で、おそらく私と会うよりも私のブログや投稿を見てもらったほうが価値ある時間の使い方だと思うからです。

 

ショーペンハウエルという哲学者も言っていますが、「活字とはその人の精神の結晶」です。

 

実際に会ってお話をすれば、チンコだのマンコだのいろいろとくだらない話をするわけですが、やはり文章というか活字は、必然的に私の思考の一番凝縮されたものになります。

 

全く無駄がなく、私の思想や哲学が濃縮されているのです。

 

おそらく私と1時間会ってお話しするよりも、私のブログや投稿を5分見るほうが圧倒的に正しい時間の使い方です。

 

飲食店や美容院などで延べ100時間以上コミュニケーションをとったことがあるお店の方ですら、いまだにまともな話をしたことがなく、その人の思想や哲学など何一つわからない場合がほとんどです。

 

逆に、私と100時間以上話したことがあるにもかかわらず、私がこのブログで述べている様な事を一切知らない人も山ほどいます。

 

結局何が言いたいのかというと、会話というのは非常にとりとめのないもので、人と話をしてもあまりその人の思想や哲学はわかりません。

 

「いやー昨日の巨人はすごかったですね」

「そうですね、坂本のホームラン見ました?」

「ええ、あのスリーランで流れが変わりましたねぇ」

「最近巨人が調子いいですから、酒もなかなか進みますよ」

「ロマネコンティあけちゃいましょうよ」

to be continued

 

 

「最近奥さんとどうですか?」

「いやあ、まともな会話もないし全然セックスレスですよ」

「そうですか。なら、ピンサロでも行きますか?笑 五反田のkatohayaanというピンサロは20分3,000円でなかなか可愛い子つきますよ」

「いやあ、風俗はあんまり好きじゃないんですよ」

to be continued

 

活字にすると恐ろしいほど空虚ですけど、我々の「日常会話」なんてこんなもんですよ。

 

特に女子大生の会話なんて会話の90%はこんなレベルじゃないですか?

 

こう言ってはなんですが、「まじでくだらない」としか言いようがないです。笑

 

しかし、やはり「文は人なり」と言いますが、文章は記録に残るものですし、活字は目に見えるために無駄が少ないのです。(ちなみに、予想される反論があるのであらかじめ答えときますが、別に私は人間の会話の全てにものすごく意味を求める必要はないと思っています。子供や恋人と話す会話にたいして中身や意味がない事は自明ですが、それはコミニケーションそのものに意味があるからいいのです。私は、「たいして好きでもない人とどうでもいい会話を日常でしていること」に疑問を感じているだけですから)

 

ちょっと大げさに言えば、私のブログの読者の皆さんは、私のイトコや両親より私の哲学や思想について理解してると言っても過言ではないでしょう。(それにどれだけ意味があるかどうかはさておき。笑)

 

それは結局、ブログでは無駄話が一切なく私の思想的な部分しか表現されていないからです。

 

どうせ実家で両親と話しても、笑点でも見ながら、「○○小の時の鈴木君は最近大阪に転勤になったらしいのよ。大変ねぇ、鈴木くんのお母さんから聞いたわ」、「スーパーでブロッコリーが安かったからこれ作ってみたんだけど」といったどうでも良い話にしかなりません。

 

ですから、私が書いた文章ほど私の思想が凝縮された媒体はありませんし、それはあらゆる書籍やブログに言えることです。

 

繰り返しますが、文は人なり、活字は力なりです。

 

文章ほどその人の人間性や哲学が凝縮されてるものはありません。

 

 

 

 

もしこれがあったら

よく「○○さえあれば幸せになれるのに」と考える人がいます。

 

「年収があと200万円高ければ幸福になれるのに」

「もうちょっと身長が高ければモテる(し、それに従って幸福になれる)のに」

「スペックが高い男性と結婚すれば幸福になれるのに」

etc

 

私はこういった思考回路の人は一生幸せになれないと思ってます。

 

エチオピアの子供や特攻隊で散っていった若者のような悲惨な状況にあるわけでもなく、目が見えないとか足が1本ないとか肝臓が半分動いていないとか、そういったレベルの不幸があるわけでもないのに、五体満足で毎日食事が食べられるのに「○○があれば」といった発想の人は、どうせその○○が手に入ってもそれがデフォルト化し、別の○○が欲しくなります。

 

「あと200万円年収が増えれば幸福になれる」と言っている人はその目標を達成してもその3年後にはまた同じことを言っているはずです。

 

「年収1,000万円になれば幸せになれるのに」が今度は「年収2000万円になれば幸せになれる」になり、しまいには「あそこの山が手に入れば幸せになれるのに」と欲望は尽きることがありません。

 

洋服やブランド物好きな女性に典型ですが、人間の欲望は無限大です。

 

どうせ1つの欲望を満たしてもまた別の欲望が湧いてきます。

 

そう考えると、発想を転換して、欲望を満たすよりも「どうせ欲望は全て満たせない」と悟りを開くことが幸福への道のような気がします。

 

そんなことよりも、好きなことをしたり子供と遊んだり、欲望の充足と別次元の幸福を追い求めるほうがずっと良い人生なのではないかと思います。

 

「足るを知る」と言いますが、自分の中のミニマムラインの欲望を満たしたら、あとは無限に続く欲望を満たすよりも、他のことに幸福を見出したほうがずっと楽だと思います。

 

「○○があれば幸せになるのに」と言っていると、永遠に幸福になれません。

 

 

メディアや表舞台には成功者しか出てこない

半分先程の続きですが。

 

よくベンチャーや起業で成功した人が夢やロマンを語ります。

 

「今は会社に頼る時代じゃないよ」と成功した起業家は吹聴します。

 

しかし、間違ってはいけないのですが、「事業に失敗した人」などは決してメディアや表舞台に出てくる事はないのです。

 

一流大学や難関資格試験の「合格体験記」はありますが、「不合格体験記」なるものはありません。

 

ビジネス書で成功した経営者は出てきますが、「成功しなくて借金まみれ」の経営者は決して出てきません。

 

これがいわゆる「生存バイアス」です。

 

私が世の中の「成功を語る成功者」に胡散臭さを感じるのはまさにこの点です。

 

世の中で、「努力をしないと絶対に失敗する」のは間違いなく事実ですが、「努力しても成功するわけではない」のも同じ位真実なのです。

 

努力や方法論はあくまで必要条件であって十分条件ではなく、それらを満たしてからが本当の勝負であるというのが「不都合な真実」です。

 

「メディアや表舞台には成功者しか出てこない。」

 

この事実はいくら強調しても強調しすぎる事はないでしょう。

 

 

 

 

30年前の人気企業なんて?

よく言われてる話ですが、30年前に就職先人気ベスト10の企業のほとんどは今ベストテンにすら入っていませんし、存在してなかったりします。

 

この事実を持ってして「だから人気企業なんて行っても仕方ない」と判断する人がいます。

 

しかし、これはちょっと早計かもしれません。

 

たしかに、いま人気があったり就職が難しい企業が30年後も安泰である保証などありません。

 

私も別のところでそういうことを言っています。

 

しかし、私が意図しているのは、「大企業や有名企業に行ったからといって、一生安泰だと思って自己研鑽を怠る愚に陥らないように」という趣旨であり、「大企業よりベンチャーだよ」などと言うつもりはさらさらありません。

 

やはり選べるならとりあえず大企業に入るべきだと思います。

 

「あの長銀も潰れたじゃないか」などと言うのはちょっと極例ではあります。(私も同じようなことを言う時がありますが趣旨は上に述べたとおりです)

 

本来この手の話は「30年前の人気ベスト10企業」と「30年前のアットランダムに選んだ10企業」を比べないと意味がありません。

 

(アメリカ人の身長と日本人の身長を比べる時に、それぞれアトランダムに10人ずつ位を連れてこないと比較にならないのと一緒です。

 

アメリカ人の身長が低い人と日本人のバスケットボール選手の身長を比較してもフェアではないですから。

 

まさかアメリカ人の身長が低い人10人と日本人の身長が高い人10人の平均を比較して「日本人とアメリカ人もたいした身長変わらなくね? てか、日本人の方が高くね?」というのが間違いなのと一緒です。)

 

そのような「公平な比較」をすれば、30年前に存在していた、アットランダムに選んだ10企業のうち8社くらいはランキング以前に存在すらしていないわけです。

 

たまたま人気ベスト10が入れ替わっているからといって「だから大企業に入っても仕方ない」という推論は論理ミスと言わざるを得ません。

 

また、大企業の場合は、「企業単位」では潰れていても結局「そこにいる人」は簡単に転職ができます。

 

長銀が潰れたといったところで、長銀にいた事実がキャリアでは活きるわけです。

 

リーマンショックの時も、私の友人でリーマンを辞めた人が何人かいますが、誰一人その後のキャリアに困っていません。

 

また、そもそも一流企業や人気企業に入れるという事実が「ポテンシャルは高い」ということを証明しています。

 

たしかに、一流企業にいるから仕事ができるとは限りませんが、やはり何千人とエントリーがある中で生き残っている50人や100人ですから、「平均的には」やはり能力が高いのは事実です。

 

大企業をやめても、経歴としてそれなりに役に立つのはそういう意味もあります。

 

言うならば「一流大学中退」みたいなニュアンスですね。

 

数日前に私は、「日本の給料なんて新卒で入った会社で決まっている」と本当のことを言いましたが、一般論で大企業に入る意味はまさにここにあります。

 

別に大企業にいるから「個人として仕事ができる」とか「個人としてすごい」というわけではなくとも、ただ単に大企業にいるという事実が高所得を保証しているわけですから、これから選択する学生なのであれば、大企業を選ばない理由はないでしょう。 (そこで揚げ足を取るように、「お前、別に所得が高くても幸福にはならないと言ったやん」などと言わないでください。そんな反論は「予想済み」ですが、別に同じ労力だったら所得が高いに越した事はありませんから。「年収と幸福度は比例しない」というだけで、同じ労力で手に入るなら高所得のほうがいいに決まってますよね。「3倍努力して3倍の所得を得る事は馬鹿らしい」という趣旨ですから、私が言っているのは)

 

私はそのように思っています。