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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

理性万能主義について

今日たまたま「男性脳、女性脳なんてそこまでない」という女性研究者の記事を拝見いたしました。

この手の話は分野的には自然科学ですが、ジェンダーやフェミニズム、リベラリズムといった人文系のテーマともクロスする極めて微妙な分野です。

『言ってはいけない』にも書いてありましたけど、どうも現代の日本社会で「あいつは頭が悪い」、「あいつは論理的ではない」というのはなかなかの侮辱語のようなので、あまり本当のことを言っていると批判されてしまいます。

「女性は男性より体脂肪率が高い」、「女性は男性より体毛が薄い」というのは侮辱語にはならないわけですが、「女性は男性より論理的思考が苦手である」とは言ってはいけないようです。

「女性は男性より体脂肪率が高い」も「女性は男性より論理的思考が苦手である」も論理構造としては一緒ですが、前者は許容されても後者は許容されません。

これは何故かというと、論理や知性というものが現代世界で過剰に評価されているからなのです。

本当に大切な事は侮辱してはいけないのです。

こういったドグマがその女性研究者の結論にたいしてものすごく影響を与えていると思います。

「女性が男性より論理的ではない、という結論が決して出ないようなデータを集めよう」というバイアスがかなり混入しています。

二流の科学者で勘違いしている人がいますが、人間の目を離れた客観世界というのは存在していません。

あくまで人間が言語で解釈してるから自然界も存在してるわけです。

「客観的なデータ」など存在するはずもなく、あくまでも人間の解釈が必ずデータには混入します。

高校生の成績を比較しても、最上位レベルでもやはり女の子はかなり数学ができませんし、これは申し訳ないですけども、「女性は論理的ではない」と言われても仕方ない話です。

それでもこういった「本当の話」を『言ってはいけない』のは、それが現代社会で過剰なまでの価値を持っているからでしょう。

生物レベルで考えたら、人間の論理思考等は「恐竜の爪」や「魚のえら」、「キリンの首」と同じ程度の意味しかありません。

ホモサピエンスは「巨大化」ではなく「脳化」を自然選択の段階で選びました。

その結果として我々の社会では頭が良いことが評価されてますが、別に論理的な思考ができるというのは「恐竜の爪」と同じようにそれが生存に有利だから、という程度の意味しかなく、それぐらいマクロに相対化して考えたら、そもそも論理的だろうがなかろうがたいした意味はないのです。

ただ、近代以降、たまたま理性や論理が非常に力を持ってきたというだけです。

論理的でないことに過剰に反応してしまうというのは、現代社会の病理でしょう。

そしてその病気の原因を人間の歴史レベルと生物レベルで考えたら、全てが氷解します。

適切な割合

ホリエモンやちきりんはことあるごとに「自分の頭で考えろ」といった趣旨のことを言います。

もちろん個人レベルで人生を豊かにするのに自分の頭で考えて自律的に正しい判断ができることは非常に有用なことです。

しかし、社会全体で考えたときに、あまり頭が良い人が多すぎないほうが社会はうまく回ります。

というか、そもそも「頭が良い」とか「自分の頭で考える」というのも、「頭が悪い」、「自分の頭で考えられない」人がたくさんいることが前提になっている言葉です。

「頭の良さ」など相対的なものでしかないからです。

為政者や経営者からしてみたら、あまり国民や労働者が頭がよすぎるというのも困ります。

会社経営者からしてみたら、従業員が自分と同じレベルで頭が良くて自律的な判断ができたら、自分の相対的な優位さはなくなります。

従業員からしてみたら独立すればいいという話です。

経営者から見て従業員というのは、「そこそこ優秀だけどあまり優秀すぎない、本当に自分の頭で考えすぎない人間」こそが一番良い人材です。

社会全体で見ても、コンビニの店員やトイレの清掃員、タクシーの運転手が本当に頭を使って考え始めたら社会は大混乱です。

誤解を恐れずに言えば、あまり教育を受けずに自分の頭を使わない人間が多数いるから社会は回っています。

あまり国民全体が頭良くなってしまったら、くだらない消費をする人間がいなくなってしまいます。

タワマンやメルセデス、ブランドのバック、お受験などにうつつを抜かすバカな人間がいるから社会は回っていますから。(cf ボードリヤール)

本当の賢者はディオゲネスの樽でいいわけですよ。

私は非常にジコチューなので、自分と家族と友達には賢くなって欲しいですが、自分の仕事の競合相手や社会のほとんどの人間にはあまり賢くなって欲しくないです。

消費社会に翻弄される頭の悪い人間がいなくなったら投資もアフィリエイトも成り立ちませんからね。

「賢さ」はあくまで相対的な概念です。

全体を見る

今日論じたホリエモンの著書についての話の半分続きですが。

特に若い時はそうなんですけど、やはり人生いろいろやってみることが大切だと思います。

ホリエモンは「尖った人間が素晴らしい」と言っていましたが、やはり一つの分野で尖るためには色々なことに挑戦してみる必要があります。

スポーツでもアメリカのように季節ごとにいろいろなスポーツをやるからこそ自分の適性が見えてきます。

私もサッカーをやっていたとき、フォワードからミッドフィルダー、ディフェンダー、ゴールキーパーを一通りこなしたからこそ、ディフェンダーやゴールキーパーが向いていると途中で気づいたわけです。(ただ単にフォワードとして通用しなかったという噂もありますが、、笑)

いろいろなスポーツをしてみたり、同じスポーツでもいろいろなポジションをこなすからこそ見えてくる光景があります。

勉強に関しても、やはり基本的には国立型で全科目をそれなりに勉強することに意味があります。

古文とベクトル。

ウマイヤ朝と運動方程式。

全然関係ないものが化学反応を起こすからこそ脳が鍛えられるのです。

そこを早い段階で「俺はどうせ理系はダメだ」と見切りをつけてしまうと、言語系の能力しか発達しません。

私も偉そうなことを言えるほど人生経験が豊富な人間ではありませんが、やはり色々なことに挑戦してこそ自分の得意な分野が見えてきます。

ホリエモンが言うような尖った人間になるために、まずはいろいろやってみなくては「自分は何が尖っているのか」がわからないと思うのです。

食わず嫌いでいろいろやってみることが一番です。

ホリエモンの話

私は実はホリエモンの信者ですが、今日たまたまホリエモンの新著を読みました。

ホリエモンの主張をまとめると

・「すべての教育は洗脳である。今の学校教育というのは、工場労働者を作るための教育だ」

・「オール5を評価する教育は時代遅れだ」

といったところに集約されます。

まず1つ目の主張についてですが、私はこれに関して半分賛成で半分反対です。

私もホリエモンと一緒で日本の学校教育には馴染めなかった人間ですが、それでも日本の学校教育を100%否定することはできません。

なぜならば社会とは共同生活であり、何かしらの価値や規範を共有しないと社会は成立しないからです。

よく外国かぶれの人が、日本の教育の後進性を指摘しますが、サッカーでもビジネスでも日本人の規律・ディシプリンは非常に世界で高く評価されています。

もちろんこれではブレイクスルーは起きない、という見方もありますが、「程度問題」というほかありません。

社会のみんながホリエモンやイケハヤ(やひょっとしたら私)のような生き方をしたら、社会は回りません。

ホリエモンやイケハヤ、はあちゅうが「好きなことをして生きれば良い、会社に縛られるな」とよく言います。

これは、個人レベルでは当てはまりますけど、社会の構成員が全員同じ生き方をしたら社会は崩壊します。

経済学で言う「合成の誤謬」というやつです。

日本の学校教育が大切にしている自己犠牲の精神や「嫌なことや不条理に耐える能力」は過小評価されてはいけません。

世の中のほとんどの人間は自由に好き勝手生きられないわけですから。

次の論点ですが、「オール5は時代おくれ」というお話ですけれども、これもまた程度問題と言うほかないですね。

要は「とがっている人間を大切にしろ」というよくある主張ですね

しかし、一定以上知的な労働に従事する人間は、少なくても小中高の英数国理社ぐらいまんべんなくできる必要があると私は思っています。

ある程度すべての科目ができるからこそ「全体」が見えるからです。

日本のノーベル賞受賞者を見てください。

みなさんそれなりの一流大学を出ています。

日本のノーベル賞受賞者は22人いますが、一人も私立大学出身者はいません。

これはなぜなのか少し考えてみたほうがいいでしょう。

本来例えば生物学だけできればノーベル生理学賞とかは取れますから、理屈的には生物だけできて他の科目が一切できない二流大学の出身者がノーベル賞をとってもおかしくないはずですが、現実にそういうことが起きていないということは、ある程度すべての科目ができるからこそ一つの分野に特化できるという面もあるということの証左です。(背理法)

穴を深く掘るには広く掘らなくてはいけないのです。

「オール5➕1つの分野で尖っている」人間こそが優秀だと私は思っています。

ホリエモンの言ってることは、半分ぐらい理解できますが、ちょっと言い切りすぎという面もあるのは否定できません。

男と女

男女平等とは言うものの、できるだけ等しく扱うべきだという意味で、当然男と女は違います。

たまに思うんですけど、確かに社会的に女性が不利なこともありますが、それぞれの性だからこそ特に求められる要素って男女ともに同じ位あるような気がします。

例えば身長なんて、女性にはあまり求められませんが、男性にはすごく求められます。

背が低い男性って、究極的にはそれだけで生きていてコンプレックスだと思いますから。

また、私は童貞時代に(みんな通過する時代なんだけど)、「童貞に人権や発言権はないのではないか」と感じていましたが、処女はきれいなものとして尊重されます。

童貞と処女では圧倒的に童貞の方が恥ずかしいわけです。

「なんで童貞と処女でこんなに扱いが違うんだ」と憤慨していました。

しかし、この年になって逆に別のファクターで女性はかわいそうだと思うのは、子供ですね。

生理的にできない以上しかたないわけですが、子供ができない女性は童貞の20倍辛い社会的立ち位置だと思います。

何故か結婚していないとか子供がいないだけで、東京カレンダーを引用すると、「女性として不完全」という扱いすら受けるわけです。

「子供がいないあなたが人生の何がわかるの?笑」とマウンティングされたらもはや何も返す言葉がありません。

「童貞君に何がわかるんだい?笑」とマウンティングされたら何も返す言葉がないように、これは究極のマウンティングなんです。

それ以外にも、男性と女性で片方の性には求められて、もう片方の性には求められないファクターがあるとすれば、「顔」ですね。

男性は並の顔でも年収や地位や人柄でモテますが、女性はまずある程度の顔じゃないと恋愛レースに立つことすらできません。

逆に、小中高に女の子が勉強ができないのと男の子は勉強ができないのも、親からしてみると全然違うみたいですね。

圧倒的に馬鹿で辛いのは男性みたいです。

まぁ結局のところ、男も女もその性別による不利益というのはあるわけですから、あまりどちらかの性だけが損だというようには考えない方が良いでしょうね。

差別

女性差別をなくすためにイギリスの研究機関で差別語を禁止する動きがあるようですが、この手の差別というのは言葉自体が悪いというより、使う人間の意識の問題だと思いますから、そこまで目くじらを立てるのはなんかちょっと違う気がしますけど。

ビジネスマンではなくビジネスパーソンとか。
英語のmanをやめてhumanにするとか。(でも、humanにmanが既に入ってるから焼け石に水な気もしますけど。ならばhuにしますか?笑 Hus are equal.とか笑)
 
例えば韓国朝鮮人のことを昔差別的に「朝鮮人(ちょうせんじん)」と呼んでいましたが、「朝鮮人」は本来文字通り「朝鮮の人」でしかありません。

JAPもそうでしょうけど、そもそもニュートラルの意味しかないものを使い手が勝手に差別的に使っているだけです。

差別とは人の心の中にあるものです。

極端な差別語じゃない限り、無駄に禁止するのは言葉狩りな気もしますけど。