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「よく生きる」

自称辣腕経営者が人間や社会について淡々と語ります。代官山と港区海岸のタワマンに住んでいます。京大法学部在学中には有名予備校で講師をしていたので、外国語や教育について特に関心があります。

「わかりやすさ」病

半分昨日の投稿の続きですが。

 

日本のとりわけ都会人は、「わかりやすい承認」を強く求めています。

 

そして定量的な自慢は非常にわかりやすい。

 

「田園調布に住んでいる」

「大学教授をやっている」

「スタンフォードのMBAを持っている」

「タワマンの最上階だ」

「息子が開成中学に入った」

etc

 

こういった定量的な要素は、一瞬で自慢できるからこそ多くの人はこういったわかりやすい自慢をしたがるのです。

 

英語にしても、なぜか「話せるようになりたい」人は非常に多いですが、おそらく「ペラペラ流暢に話している姿」はわかりやすくマウンティング材料になってくれますからね。

 

「英語が読める」能力は話せる能力に比べて自慢がしにくいのです。

 

「息子が非常に両親想いで、いつも肩もみをしてくれる」、「娘が自分たちの誕生日にサプライズのパーティーをしてくれた」といったお話は美談ですが、「息子が開成中学にいる」という定量的で客観的な自慢よりは自慢になりにくいのです。

 

本当は人として大切なのはむしろ後者よりも前者のようなことなんでしょうが、こういった定性的なお話は自慢がしにくいが故になかなか皆さん興味がないのです。

 

だからこそ、タワーマンションの階数や夫のスペック、息子の学校の自慢のような定量的で客観的なマウンティングを目的として、わかりやすい肩書やブランドを皆さん求めるのです。

 

ちなみに、予想される反論があるので先に言っておきますが、私も時と場合によってはこういったものを重視する時もあります。

 

知らない筆者の本を買うとき、英語の先生を選ぶとき、職歴や学歴なり英語の資格などをチェックすることはあるでしょう。

 

しかし、それはあくまでも市場に数ある物の中から比較的マシなものを選ぶための便宜で、身近な人間に対しては個別の判断を優先させます。

 

また、自分自身も「馬鹿で無教養な港区の人間」に馬鹿にされないために最低限のスペックは持っているつもりですが、結局「無教養で浅はかな人間」は、定量的なスペックを持っていない人間が何を言っても、「持っていない人間のひがみだろう」と解釈するに決まっているとわかっていますから。

 

千葉や埼玉のアパートに住んで、港区の人間に「君は、ディオゲネスの樽やボードリヤールを知ってるか? 君たちは消費社会で泳がされているピエロだよ」とマウンティングしてもなかなか定量的じゃないが故にギャフンと言わせることはできないでしょう。

 

港区あたりのスノッブな人間が間違っているのは、会話をして個別の判断ができるような状況ですら、自分の判断力ではなく、「ブランドや肩書」を圧倒的に信じている点です。

 

あらゆるものが低俗化し、「一瞬でわかりやすいもの」が幅をきかせている時代なのです。

 

このくだらない時代に生きてるということを意識し、少なくとも私はくだらない人間とは関わらないように生きていこうと思っていますが、そういった人間にとって読書や教養ほど人生の糧になるものはないでしょう。

 

教養や読書ほど「わかりにくく」しかし、圧倒的な自信を与えてくれるものはないからです。

 

とは言え、私は究極的には「自分がいいと思えばいい」と思っているので、スノッブな港区民もそれで完全に自分が納得してれば別にいいと言えばいいんですけどねぇ。

教養と資格を間違っている馬鹿な社会人

最近生意気で不遜にも「教養講座」を始めてしまいましたが、こういった講座で勉強しようという社会人には本当に心から敬意を払いたいと思います。

 

なぜならば、「教養」ってすぐに役に立つものではありませんが、そのすぐに役に立たないものに時間を使ってくれているからです。

 

「社会人の勉強」というとみなさんTOEICやら簿記やらMBAのようなものをイメージするみたいですが、なぜ皆さんがこういった勉強に走るかと言えば、「わかりやすい」からでしょう。

 

資格や学歴は定量的でわかりやすい。

 

ですから、皆さん簡単に承認欲求が得られるこういった道を選ぶのです。

 

定量的な肩書は承認欲求を端的に充足してくれますし、マウンティングの道具に使いやすいですから。

 

TOEIC満点

公認会計士

ハーバードMBA

 

etc

 

しかし、間違ってはいけないのは、

 

肩書なんぞは「最初のハッタリ」にしかすぎない

 

ということです。

 

資格や学歴は、あくまで初対面の人間を威嚇する時にちょっと使えるというだけで、30分も話せば無能で無教養な人間はすぐに分かります。

 

それなのに資格のような定量的な勉強に走るというのは、何か根本的なところで自分の人生に自信がないのでしょう。

 

彼氏のスペックやわかりやすいブランド物、子供の学校名などに過剰にこだわる女性も根本のマインドは非常に似ています。

 

「わかりやすいもの」で承認を得られないと不安で仕方がないのでしょう。

 

ちなみに資格の類を取得しようとしている人が、全てが全て間違っているわけではありません。

 

私が問題だと思うのは、定量的な肩書を手に入れる事が目的になってしまっている人々です。

 

なお、ありがちな反論として「加藤、お前もそういったわかりやすいアイテムを持ってるじゃないか!?」という反論が予想されますが、私はあくまで世間の価値に合わせてアイコン的にとりあえずそういったアイテムに付き合ってるだけで、そんなものを人生の目標にしたことやありがたかったことは一度もありません。

 

そんなに私はレベルが低くないつもりです。

 

だいたい「わかりやすい承認」を目指すのであればこんなブログを書いたりするまでもなく、もっと稼いで六本木ヒルズや田園調布に住んだりポルシェやメルセデスに乗ったりしてるでしょう。

 

その方が「定量的に誰もが認めてくれる」わけですから。

 

「ブログが面白い」なんて極めて主観的で定性的ですから、全然自慢にならないですから、、笑

 

私の遠い知り合いで、とある外国の資格を目指していて最近断念した人がいるのですが、この人なんかは典型的な「間違っている人」です。

 

経歴や資格さえ身に付ければ人が寄ってくると思ってるのですが、共通の友人の誰もが「あいつは浅い」と評価してるわけで、そんな教養がない人が資格を身につけたところで他人からの評価(あいつは浅い)は何も変わらないのですが、本人は資格さえ取れば何がすごい人生が待ってると勘違いしているのです。

 

そうではないのです。

 

むしろ長い目で見ると、すぐには定量化できない基礎教養を身に付けた人間こそがそれなりの人間のコミュニティにおいては有効です。

 

本を1000冊単位で読んで教養がある人間は、教養がない人間の匂いが一瞬で分ります。

 

極端な話、2000文字程度の文章を書かせて、10分話せば、一瞬で「こいつしょぼいな」というのがわかってしまいます。

 

いくら資格や学歴があっても、「わかる人にはわかる浅さ」というのがあるのです。

 

上で引用した彼も、かなり教養がある人間に会わせると一瞬で底の浅さがばれてしまのです。

 

逆説的なことに、肩書や資格等で相手を圧倒できるのは偏差値60レベルの人間同士のコミュニティであり、偏差値70以上の人間のコミュニティにおいては肩書や資格など必要条件(通過点)で、読書量や会話から垣間見える教養レベル等で「ひそかなジャッジ」が行われているものです。(当たり前ですがここで「偏差値」は「比喩的な意味」で使ってますから、まさか文字通りの意味で捉えないでください)

 

これは欧米のエリートなんかにも言えるみたいですけど。

 

最後にやらしいマウンティングをしてしまいましたが、これはtruthです。

 

定量的な勉強など卒業して、教養レベルで他者を圧倒するフェーズに入らないと「まだまだ」です、ええ。(ただし、教養もあくまで結果としてはマウンティングの道具になり得るというだけで、それは教養の本来の姿ではありません)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「運がいい」のか「見合っている」のか

よく政治哲学の富の再分配の議論などで、commensurateという言葉が登場します。

 

commensurateという英単語は、「見合っている」とか「釣り合っている」という意味です。

 

「その所得は果たしてcommensurateか?」といった使い方をします。

 

例えば

 

必死に努力して1億円手にした人

 

宝くじで1億円当たった人

 

お金持ちと結婚して1億円相続した妻

 

何もしないで親から1億円相続した子供

 

それぞれ1億円を手にしていますが、肌感覚として、それぞれ「見合っている」、「正当」度合いが違うように見えます。

 

なんとなく一番最初のタイプが一番commensurateなように「見えます」。

 

しかし、私はこういった考え方は非常に間違ってると思います。

 

自分がいま手にしているもので、「必然的に手にしているcommensurateなもの」など何一つないと思っています。

 

なぜならば、本当に哲学的にマクロに考えると、「いまの日本」や「いまの先進国」に生まれいるだけでも非常に運がいいと言えるからです。

 

人は生まれてくる環境や親からの遺伝要素を自分で選ぶことができません。

 

そういった意味であらゆる成功や能力は運がよかったと言うほかないのです。

 

「あいつはたまたま事務所の上層部に気に入られた」、「あいつはたまたま親が金持ちなだけだ」etc

 

こういった批判はよく目にしますが、

 

たまたま圧倒的に天才的なセンスを持って生まれてきた人も、「運がいいだけ」と同じように言えるのではないでしょうか?

 

佐々木希の顔もザッカーバーグや孫正義の圧倒的なセンスもある意味「生まれた時点で持っている」という意味では「たまたま運がいいだけ」と言うほかありません。

 

「俺は努力してこの地位を手に入れたんだから、いまの地位は必然でcommensurateだ」という意見は、中学生が言うならまだしも、もし大人がこんなことを言っていたら私は笑ってしまいます。

 

おそらく自分が努力して社会的に成功したような方は、ミクロな目線で見ると「今の自分は然るべき努力をした結果で見合っている」気分になるはずなんです。

 

「表面的な現象」だけ見ると「俺が努力して今の地位を手に入れたんだから」と言えなくもない。

 

しかし、なぜ今の地位があるのかを「時系列」に遡っていくと、たまたま生まれつき頭が良かったとか、親が教育熱心だからいい学校に行けたとか、生まれ持って顔が美しかったとか、そういった「運が良かった要素」が必ずあります。

 

私が昔カチンときたことですが、私立大学の医学部出身で医者になったやつが「努力して医者になったんだから高収入なのは当たり前じゃないか」と堂々と言っていましたが、「理系バカ」とはこのことです。

 

全く遺伝学や社会科学的な目線がありません。

 

そもそも私立の医学部に行ける財力がある人間がどれだけいることでしょうか?

 

その時点で自分は「運が良い」と身の程を知るべきです。

 

では、それでは貧乏家庭から国立医学部に行って医者になったような人間が、「見合っている」のか?というとそれもまた違います。

 

なぜなら一般家庭から国立医学部に行けるような頭を持ってる時点で「才能が天から与えられている」と言う他ありません。

 

「いや、俺は地頭が悪いけどを必死に努力したんだ」という反論があるかもしれませんが、少しは遺伝や社会哲学の勉強をしたほうがいいでしょう。

 

そもそも一定程度努力できること自体が才能です。

 

そういった意味では、人間など誰一人「自分にしかるべき価値がある」などと考えてはいけないのです。

 

本質的には、宝くじに当たったのと同じようにあらゆる成功者は運がいいだけなのです。

 

ただ、「表面的に見ると」宝くじよりも努力して医者になったような人間の方がcommensurateに感じられるだけです。

 

人間は自分に価値があると思い込みたい。

 

だから、今の自分に価値があるのは「必然的」で「価値が見合っているゆえ」だと思いたいわけです。

 

決して「運」ではなく「実力」や「努力」でうまくいったんだと思い込みたいわけです。

 

しかし、それは人間が自分を肯定したいが故のバイアスであり仮構です。

 

ちょっと達観しすぎかもしれませんが、私はそのように考えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

勝ったものが強い

動画でも言っていることですが、「現代の日本社会で力を持っている人間は誰なのか」を意識して教養を身に付けることが大切だ、と私は思っています。

しかし、本当にメタレベルで深く考えてみると、なぜ政治経済や哲学、などが「教養」知識でサッカーや将棋の知識は教養と呼ばれないのでしょうか?

政治や経済について知らないと「無教養」だと言われ、野球や将棋について知らなくても特に問題がないと見なされるのはなぜなのでしょうか?

プラトンやカント、金融政策や財政政策について知らないのは「無教養」ですが、「オフサイドトラップ」や「インフィールドフライ」という用語を知らなくても無教養だとは通常思われません。

ここで我々が考えるべきは、

強いものが勝つのではなく、勝ったものが強いと解釈される

ということです。

有り体に言えば、現代の日本社会で力を握っている人間というのは「学生時代に勉強だけが取り柄だった人間」なのです。

だからこそ、「価値基準」は常に彼ら基準なのです。

難関国立大学の学生のような官僚的な試験ができる人間が「優秀」だと通常日本では考えられていますし、「教養」の基準も彼らに都合の良いものとなっています

オフサイドトラップやボランチという言葉を知らなくてもいいわけですが、プラトンや財政政策について語れないのは「無教養」と解釈されるわけです。

結局、それは今の日本社会で上にいる人間から見ると「自分たちが勝てる都合の良い基準だから」です。

学生時代にブサメンだったり運動音痴で、「勉強だけが取り柄」だった人間からしてみたらこれほどありがたい「基準」はありません。

結局私がここで何が言いたいのかというと、

強いものが勝つのではなく、勝ったものが自分に都合の良い基準を世の中のスタンダードとして認知させ、そしてさらに自分が勝ち続けることができるのです。

また、もうちょっと別の視点で同じことを論じましょう。

我々が「教養」とありがたがっているものの大半は、「西欧的知識」です。

政治や経済、法学と言った時に、何故か「西欧産」の三権分立、人権、社会契約論という概念が出てきますが、武家諸法度や勘定奉行といったお話は出てきません。

哲学にせよ、プラトンやカントは出てきますが、ベトナムやベネズエラの思想家など一人も出てきません。

ベトナムやベネズエラにすぐれた思想家が一人もいないはずがないでしょう。

それでもこういった思想家を我々が知らないのは、「アメリカ・ヨーロッパが世界史の勝者だから」です。

彼らが優秀さの基準を作ってるわけですから、彼らが勝てるのは当たり前です。

私が王様になり、「『サッカー経験者で関西出身、身長178センチ位の読書家の加藤姓』が一番優秀な人間で、彼らにお金を集めるべき、ということにしよう」と「基準」を私が決めたら、私が勝てるのは当たり前です。(ふざけた例ですが、教養概念ですら結局これと一緒です)

「美しさ」の基準すら全てがアメリカ・ヨーロッパ基準です。

通常われわれは目が大きく鼻が高い顔を「美しい顔」と解釈しますが、それとて冷静に考えてみると普遍的な基準でも何でもなく、ただ単に歴史の勝利者の基準でしかありません。

西欧人の方がアジア人や黒人より美しいのではなく、「彼らのような顔」を「美しい顔」と彼らが自分に都合良く基準を作っているわけですから、彼らが勝てるのは当たり前です。

自然界のレベルで、「目が細い顔より目が大きい顔の方が良い」などといった価値基準は当然ありません。

YouTubeで今の日本社会で「教養」だと認知されている知識を私は皆さんに伝授しますが、忘れてはいけないのは、こういった教養概念はあくまでも数ある価値観のうちの一つにしか過ぎない、という当たり前の事実です。

教養を身に付けることが大切ですが、「メタレベル」で世の中の価値基準について考えることが大切です。

強いものが勝つのではなく、勝ったものが勝ち負けの基準を決められるがゆえに強いのです。




教科書という教養

toyokeizai.net

私の自説を補強する記事を発見しました。

 

みなさん、高校の教科書で教養を身につけましょう!(◎_◎;)

 

余談ですが、「現代社会の基礎知識」という観点から高校の各科目の復習の優先順位をお教えします。

◉超オススメ

○オススメ

△やらないよりやったほうが

✖︎教養やスキルにはなるが「現代社会の基礎知識」としては??

 

英語✖︎

数学△

現代文◉

古典✖︎

物理化学△

生物地学○

世界史日本史△(近現代は○)

地理政経◉

倫理△

 

 

 

 

https://youtu.be/sLOR3idL9dE

教養は金になるか

『現代社会の基礎知識』講座を開講させました。

 

https://youtu.be/sLOR3idL9dE

 

この講座は文字通り、皆さんに現代社会で必要な基礎知識や教養を身につけていただくことを目的としていますが、そもそも、

 

教養は金になるか?

 

について少し考えてみましょう。

 

動画の中でも言ってる事ですが、「今の日本社会で誰が力を握っているか」はやはり意識するべきでしょう。

 

いいか悪いかは別にして事実として、

 

今の日本社会で力を握っている人間というのは、教養レベルが高い50代・60代の男性です。

 

彼らが採用する人間や上に上げる人間を選ぶ立場にあるわけですから、彼らに気に入られるために、基礎知識や教養の面で彼らと同等とまで言わないにせよ近いレベルである必要があります。

 

これは不都合な真実ですが、

 

人間は様々な意味で同じレベルの人間を好みます。

 

これは人間の本性として仕方ない話です。

 

皆さんも経験則でお分かりだと思いますが、

合コンでもかわいい女の子はかわいい女の子を連れてきますし、ブ、いやnot so 可愛い女の子は同じようなレベルの女の子を連れてきます。

 

学歴や教養レベルが高い人間は、同じようなレベルの人間とつるみたいと思います。

 

「いやいや、人間にレベルも何もないでしょう」というヒューマニズム溢れた反論が予想されますが、これは「そうであって欲しい」という願望と現実を混同しています。

 

現実的に孫正義や三木谷さんが、タクシー運転手やコンビニの店員と友達になる可能性は極めて低いのが実情です。

 

それは、話があまりにも合わないからです。

 

こういった事実に対してヒューマニズム溢れる反論をしても意味がありません。

 

別に意識してそういった人間を選別してるわけではなく、肌感覚や「なんとなく」で結果的に選んで「しまっている」だけですから。

 

可愛い女のコも、そこまで強く意識して可愛い女のコとつるみたいと思ってるわけではなく、無意識のレベルで選んでしまっているだけです。

 

また、逆にそこまで容姿に自信がない女の子は、かわいい女の子とつるみたいけど自分から無意識に避けていると面も否定できないでしょう。

 

これは男性の教養レベルにも当てはまります。

 

やはり、あまり話をしていて面白くない人はどうしても頭がいい人には避けられます。

 

これは仕方ない話です。

 

そして繰り返しますが、今の日本社会で力を握っている人間は年配の教養人ですから、彼らの基準で我々も動く必要があります。

 

そのように考えたときに、教養を身に付けるというのは、実は非常に実利的な側面もあるわけです。

 

ですから、「教養は金になるか?」ともし私が聞かれたら、

 

お金や現実世界での利益を目指して教養を身に付けるのは間違いであるが、「結果」として教養を身につけると「お金持ちの世界」に近づき、うまい話やあまり普通の人が知らない儲け話が聞ける可能性が高く、すごくお金になる。

 

と答えるでしょう。